積読日記

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谷川 流『涼宮ハルヒの憂鬱』

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憤慨 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憤慨 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの溜息 (角川スニーカー文庫)
涼宮ハルヒの陰謀 (角川スニーカー文庫)
 とまぁ、そんなわけで勢いで既刊全巻を読了しました。
 一応、このエントリのタイトルは『憂鬱』ですけど、レビューとしてはシリーズ全体を対象としています。
 少しオヤジの昔語りも入ってますが、勘弁したってください。
 あと、致命的なネタバレもしそうなので、以下、ご注意を。
 
 結局、一週間掛けて最新巻まで一気読みしたのだけど、読んで感じたのは「おそろしく健やかな作品だ」ということ。
 今時、家庭崩壊も、猟期殺人も、性的倒錯も、前世の因縁も、特殊部隊も、爆弾テロも、銃撃戦も、過度のオタクいじりもなし。近頃はやりのスクールカーストねたすらなしです。
 よく言われるヒロインの涼宮ハルヒの電波娘っぷりも、『憂鬱』序盤での朝比奈さんへのセクハラやらコンピ研からの機材強奪ぶりにこそ引くものの、巻を重ねるにつれ反社会性性向は急速に落ち着きを見せてゆきます。SOS団をはじめとする周囲の人々に馴染んでゆき、後の方の巻ではなんと仲間達への気遣いすら見せる。この物語は、実は感受性が鋭すぎて世界のすべてに不満を抱いていたひとりの孤独な女の子が、信ずべき仲間達を得て、のびやかに自身の個性を発揮しながら、心の成熟を遂げてゆく物語でもあるのです。
 その辺については、『憂鬱』における各登場人物の内面をきめ細やかに解析されたくるぶしあんよさんの評論が既にあるので、そちらをご覧ください。長文でしかも日記形式でとびとびに書かれてるので追いかけるのが大変だったりしますけど、作品への愛にあふれた実に丁寧なレポートです。ここまで書かれてるんなら、これ以上、僕から書くことはあまりなかったりするんですけどね。
 
 ただよそではあまり指摘されない点にあえて触れるなら、この作品で提示されるコミュニケーション観が実に現代的だという点があります。
 僕らのようなオタク第2世代の評者がよく指摘するように、作中のSOS団には80年代の代表的なオタク・コミューン像である『究極超人あ〜る』の光画部の後継者的なイメージがあります。僕なんかは笹本祐一の『妖精作戦』の主人公グループを思い出しましたけど、まぁ、何にせよ、現実にこの手の集団に所属した経験の有無に関わらず、オヤジ世代の郷愁を直撃する青春の原風景でもあるわけです。
 ただ、そうした過去の先行作品のコミューンとこの作品のSOS団が決定的に異なるのは、コミューン=メンバー間が無条件の信頼関係で結ばれているわけではない、という点です。
 涼宮ハルヒによって召集されたこのコミューンのメンバーは、秘められたそれぞれの出自と利害目的によって微妙に行動方針が異なっています。巻が進むにつれ、それぞれ個人としてのSOS団への帰属意識は高まるものの、タイムパラドクスを避けるためだとか、所属母集団の意向だとか、個人的な信頼関係とは別の要素が絡み合い、なかなかすべての情報をさらけ出して相互理解を得ることができない。
 長門有希は無敵に近い時空操作・情報処理能力を持つものの黙ってひとりで事を片づけたがる傾向があるし、古泉も背後の「機関」の全貌が今ひとつ掴めないので全幅の信頼には程遠い。朝比奈さんはふたこと目には「禁則事項」だし……そもそも上から大した情報を与えられてないんじゃないかという疑念がある。
 第一、団長のハルヒをいかにしてカヤの外に置いて事件を解決するか、というのが事件解決の基本方針なのだから、SOS団が本当の意味ですべての情報を共有して一致団結してしまったらそれで物語が終わってしまう構造なのです。
 どんな集団も多様な価値観を持つ個人の集合でしかない──これはより現実的な世界観といえばそれまでですが、オヤジ世代からすると、何もこんな身も蓋もないところから話を始めなくても、という気もしないでもない。実社会に出れば、そんなのいくらでも経験できますしね。せめてコミックやライトノベルの世界だけでも、夢を見させてくれてもいいのに。まぁ、そうは言いつつも四半世紀前の『妖精作戦』でも、その萌芽はあったわけですけど。
 価値観はどこまでも多様化し、何もかもが相対化して意味を喪い、すべてがエントロピーの法則に従って拡散と分裂を極めようとしている現代社会にあっては、フィクションの世界といえどこのくらいの分裂症的な世界観から始めないと、物語を成立させるリアリティを維持できないということなのでしょう。
 しかし、この作品がオヤジ向けのノスタルジー作品ではなく、現代を生きる少年少女に向けて書かれた優れてリアルなジュヴナイル作品である最大の特徴は、まさにこの分裂症的集団状況から物語をスタートさせているところにこそあります。
 語り辺であり主人公でもあるキョンは、宇宙人でも未来人でも超能力者でもないけれど、SOS団の仲間達に助けられ、ハルヒの心を開き、事件を解決に導く。斜に構えてなかなか本音を見せないキョンの語り口や、そもそも本人にその自覚がないからなかなか判りづらいものの、それは彼のコミュニケーション能力によるところが大です。
 利害関係だけで結びついた危うい集団でも、そのコミュニケーション能力によって結び付け、いくつもの事件をともに乗り越えることで、強い絆でつながれた「仲間達」となり得る──「スクールカースト」などという吐き気を催す現実を、「物語」の中でさえ無視することのできなくなっている今の中高校生達にとって、それは力強い希望となって映っていることでしょう。
 
 その昔、ライトノベルなどという言葉もなかった頃、長く停滞していたジュヴナイル業界で、20そこそこの若き作家・笹本祐一のデビュー作として世に出た『妖精作戦』を読んだとき、当時登場人物達と同じ高校生だった僕は、「これぞまさに自分達の物語だ」と感動し、興奮しました。そこに描かれた仲間達の人間関係の在り様、そしてその仲間達が力を合わせれば強大な権力や軍事力を持った大人達をも出し抜けるという痛快感は、それなりに閉塞し、鬱々とした気分で日々の学園生活を過ごしていた高校生にとって、救いであり希望でもあったのです。
 WEBや携帯電話もない時代のこと、それが自分ひとりの個人的な体験ではなく、少なからぬ数の同年代の少年少女達の共通体験となっていたことを知るのはもうすこし大人になってからのことでしたが。
 そんな昔を知るオヤジとしては、この『涼宮ハルヒの憂鬱』から、あの頃、私たちが『妖精作戦』に感じたような輝きを感じました。
 それは今を生きる中高校生が「自分達の物語」として、誇らしく掲げることのできる作品であろうということでもあります。
 その意味で、この作品は「ライトノベル」というより、正しく「ジュヴナイル」作品なのでしょう。
 親の世代の格差社会の進行が露骨に教室内にまで影響を及ぼしてきている現代の少年少女達の置かれた過酷な状況は、僕らにも察してなお余りあるものがあるのだけれど、それでもこうした作品に出逢うことができ、そしてそれを選び取ることのできた子供達はきっと道を違えることはないのじゃないかと思えます。
 いやこれは、少しばかりオジサンの願望が入っているかもしれませんけどね。