積読日記

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すたひろ『おたくの娘さん 第3集 (角川コミックス ドラゴンJr. 100-3)』

おたくの娘さん 第3集 (角川コミックス ドラゴンJr. 100-3)

おたくの娘さん 第3集 (角川コミックス ドラゴンJr. 100-3)

 いつの時代にも、若者にとって「家族」の問題は非常に重要なテーマとなり得る。
 自我の確立のために、自分を生み育ててくれた「家族」からどう独立すべきか。
 異性と関係を深め、自分達の「家族」とどう作り上げてゆくか。
 そして、今や「家族」の次の世代である「子供」とどう向き合うべきかを、オタク男子がストレートに物語として語る時代に至ったのである。
 
 はい、というわけで、高等遊民を気取ってオタク消費文化の担い手となってきた我々世代も、気がつけば年頃の子供がいたっておかしくない年齢。自分だってヤンキー婚でハタチで子供作ってたら、子供は今年で高3ですよ(爆)。
 あああ、「長門萌え」とか言ってる場合じゃねぇっての。世代的に娘だっつーの。知り合いの30代オタク男子(独身)なんか「こなたは俺の」とか言ってるしね。ダメだ、もう何もかもダメだ。
 ※別にこなたを娘扱いしている某氏が個人的にダメというわけでないので、念のため。
 
 ……いや、失礼。少し動揺してました。
 それはさておき、「友情」や「恋愛」、「仕事」と読者の成長に伴ってオタク向けコミックの世界が取り上げるコミュニケーションのテーマも変遷してきたのだけど、それがいよいよ「親としての立場からの親子関係」まできたのが本作品、と。
 いや、「擬似的な親子関係」ならそれこそ『プリンセス・メーカー』なんかに象徴される作品がもっと昔からあったし、「教師と生徒」の関係性にもある種の擬似的な親子関係が含まれていたと思う。
 だけど、リアルに血が繋がっていて、それだけにその「生」と真摯に向き合わなければならない「責任」のある関係性を正面から語って、そこにリアリティを感じる層がビジネス的にペイするだけのボリューム存在するようになったという点が、非常に時代性を感じるのですよ。
 
 特にこの巻では、秋葉原で新作ゲーム購入の列に並んでいる内に娘が肺炎で病院に運ばれてしまったという、もう真剣にダメなところを主人公が露呈して、その結果、親としての「責任」と対峙させられる場面がある。
 ここまで酷くはなくても、親であれば、多かれ少なかれこうした場面に直面させられることがあるだろうことは、独身である自分にも想像はつく。
「物語」の機能には色々あるのだけど、少なくとも重要なひとつに「葛藤のシミュレーション」あるいは「読者の代理人として葛藤する」という機能があって、読者はそうした「物語」を摂取し、心理的なテンプレートとして蓄積してゆくことで、実際にそうした場面に接した際に、適切に自分の心を開放したり、抑制したりできるようになる。少年マンガが「努力・友情・勝利」をテーゼとし、少女マンガが恋愛を主要なテーマとしているのは、年若い少年少女たちがこれから自分が社会に出てゆくに当たって、どんな心構えをすべきかを本能的に察知しているからだとも言えなくはない。
 その意味で、こうした作品が出てきて、それが受け入れられつつあるということは、世の年頃のオタク男子にも年相応に子供を作って育てるようになったり、あるいはそうしたいと望むようになってきたということなのだろう。
 
 とは言うものの、年齢的に彼らのパートナーとなるべき腐女子な皆さん向けに、子育てテーマの作品が出てきたなどという話はとんと聞きませんな。
 あ、この場合の「子育て」は、一般的な「子育て作品」のことではなく、「腐女子的な自我(アイデンティティ)を維持したまま、母親として子育てをする作品」のことです。視点はあくまで「育てる側」に置いて。
 現実にはそうしたお母さんってそろそろいそうだけど、BL文化が確立したのは、男オタクの文化より少し後になるからなぁ。
 勿論、男だけでは子供は作れないわけで、その意味で、今のところ男オタクの片想いで終わってる話なのかも知れず。
 まぁ、「腐女子な自分を受け入れてくれるオタな彼氏」との話はぼちぼち出てきてはいるみたいなので、希望がないわけではないのでしょうけど。
 
 で、それはそれとして。
「彼岸荘、一刻館化計画」とか、「管理人さん+ソーイチローさん」のキーワードで反応してしまう道行く人々とか、自分も直撃世代だったので笑ってしまいました。
 いやぁ、自分も白い犬飼ったら、命名しちゃいそうだなぁ。