積読日記

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東国原知事が徴兵制に賛意 宮崎県民との意見交換会で

軍事革命(RMA)―“情報”が戦争を変える (中公新書)

軍事革命(RMA)―“情報”が戦争を変える (中公新書)

戦争請負会社

戦争請負会社

傭兵の二千年史 (講談社現代新書)
外注される戦争―民間軍事会社の正体
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/071129/lcl0711292124005-n1.htm
 
朝日新聞
http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html
 
■毎日.jp
http://mainichi.jp/chubu/newsarchive/news/20071129ddh041010002000c.html
 
 某所の掲示板でこの話をしてたんですが、他所様に書き込むには文章量が大きくなりすぎたので、自分んとこで仕切りなおし。
 ちなみにご本人は後になって「実は徴農制と言いたかった」と言いなおしているみたいですが、まぁ、それはどうでもよろしくて、どっちにしても若者が「規律」を学ぶには強制労働施設や機関のようなものが必要だと言いたいらしい。
 ご自分の若かりし頃の所業とこの発言が彼の人の内面でどのように整合性が持たれているのかは非常に興味があるのだけど、まぁ、それもまたどうでもよろしい。
 
 ここで問題は2点あって、ひとつは「現代戦の実相を踏まえて『徴兵制』は現実的なのかどうか?」という点で、もうひとつは「『規律』の学習に何らかの強制労働機関が必要なのでは?」という点。
 それぞれについて考察を行うつもりだけど、どっちも長くなりそうなので、今日のところは前者「現代戦の実相を踏まえて『徴兵制』は現実的なのかどうか?」を中心に考えてみよう。
 つーか、イケイケの右の人から、軍国主義の到来を憂う左の人まで、こんなありえない話にマジになりすぎだから。
 政治的イシューとしては論ずることすら時間の無駄なとっくに結論の出ている話だから。
 いっそ一般教養といっていいくらいの話です。
 今日はそこをはっきりさせましょう。
 
 とは言うものの、軍事についてちょっとでもかじった人間であれば、先進国で次々に「徴兵制」が廃止されていることはご存知であろう。
 理由は明快で、ど素人にライフルと背嚢を背負わせたくらいでは現代戦は遂行できないという点に尽きる。
 それは先日ここでも紹介した陸自の「ガンダム計画」なんか象徴的で、歩兵一人ひとりに通信機器やらPDAやら高度な火器管制システム付きのライフルやらを実装して情報処理能力と火力を増加させようとしている。加えて米軍なんかもう実戦で始めているが、戦地に進駐した陸戦部隊の司令部がまず真っ先にやるのはサーバを構築し、戦場LANを展開して、本国のホストサーバとの通進回線を確保することである。その上で、初めて最前線に兵を前進させるのだ。
 このように高度に情報化された軍隊にとって、歩兵とは単に火点(ライフルマン)であるだけでなく、最前線に陣取ったセンサーであり、端末であり、ミニマムな情報処理ユニット(プロセッサ)である。一人ひとりの兵士が敵の戦力を判断し、後方の司令部に報告し、必要があれば航空ユニットや砲兵ユニットに座標を知らせて砲爆撃を要請し、戦果を評定してまた報告しなければならない。高度な知識と訓練が必要だ。
 ここに加えて、現代戦の多くでは市街戦のように遮蔽物の多い場所での戦闘が多発しているから、分隊以下(5〜6人)の小単位に分断されて任務を遂行しなくてはならない場面も多く、火力だけでなく格闘技や持久力もハイレベルなものが要求される。
 素人考えでも一番金がかからなさそうな歩兵でさえこれだけのスキルが要求され、そのスキルに見合った教育コストを掛けないと使い物にならない。
 仮に一厘五銭の赤紙一枚で人間の命を調達できたとしても、彼が一人前の「兵隊」になるには莫大な税金を掛けねばならないのだ。ましてや、先進諸国のように基本的に人間ひとり当たりの生産性が高く、また高度な消費生活を送っている国では、徴兵された彼がシャバで生産したり消費したりしてGDPを押し上げ、税を納めたであろう機会損失も無視できない。勿論、生きてさえいてくれれば軍隊の中で消費してくれるだろうが、基本的に軍隊は生産機関でないし、死んでしまったら消費もしなくなる。いや、遺族年金くらいは残るか。でも、生きてシャバで生産と消費を続けてくれた方が、遺族年金の総額よりもはるかに多くの富を国家にもたらしてくれるはずだ。
 ここではあえて人道的な側面を無視して、金の話だけをしているが、いずれにせよ先進諸国では兵隊一人ひとりの命が重く尊いと広く認識されていることは間違いない。
 それでも戦場に兵を送らねばならない状況は当然、発生しうるのだが、そうであるならなおのこと個々の兵士に必要な装備と教育を施して、可能な限り生存性を高めてから送り出さねば社会が納得しないし、そもそもそれだけコストを掛けた兵隊にばたばた死なれたのでは軍の予算もすぐに底を尽く。
 そんなわけで限られた予算の中でより効率よくプロの「兵隊」を育成しようと思ったら、徴兵制で有象無象の若者を連れてきて教育するより、自らの意志で志願した若者を相手にしたほうがよほど効率的だ。少なくとも、「ダメな奴」のスクリーニングに掛ける手間と暇は掛からない。
 そんなわけで、イラクとアフガンの2正面作戦を展開し、慢性的な戦力不足にあえぐ米軍でさえ、徴兵制を復活させようとはしていない。田舎の自警団に毛が生えたような州軍を半ば騙すようにいい加減な装備で最前線に放り込んだり、怪しげな民間軍事会社(PMC)から兵士を雇ったりしても、だ。
 
 だいたい時代は徴兵制どころか更に逆行しており、軍事行動全般をフォローするだけの人員を教育するコストすら確保できず、後方業務をどんどんアウトソーシングしている有様なのだ。
 今回の防衛省次官汚職で露呈したのは、装備調達の業務を本来それを専門としているはずの調達本部のスタッフだけでは対処できず、いわゆる防衛商社にアウトソーシングしていたという実態だ。これを調達本部で完全に処理しようと思ったら、今の数倍の人員が必要になる。国の行革方針に真っ向から逆らうことになってしまう。
 イラクの米軍なぞ前線への物資輸送などの兵站業務(ロジスティック)まで民間業者にやらせ、その護衛にPMCの兵士を雇っている。
 まぁ、ここまでやるのはどうかとも思うが、何にせよ何も知らない、特に意志もない若者を連れてきて戦場に放り込んで勝てるほど、現代戦は生易しくはないのだ。
 
 勿論、「でも、そのイラクやアフガンで米軍を苦しめているのは、訓練や教育されていない民兵じゃないの?」とのご指摘の向きもあろう。事実、そのとおりだ。現代戦の大きな特徴は、こうした非対称性にある。
 が、正規軍と民兵の損害もまたひどい非対称性にある。先進国の兵士ひとりが殺されるまでに、多くの民兵が膨大な火力の前に斃れているのだ。『ブラック・ホーク・ダウン』で有名なモガディシオの「ブラックシーの戦い」では、米兵の損害十数名に対して、地元の民兵が1,000人以上殺されている。
 また、イラクでもアフガンでも、元正規兵や歴戦の聖戦士(ムジャーヒディーン)などのプロが作戦を指導し、要所要所で投入されている。彼らはその辺で調達される民兵とは違って、無駄死にするような作戦には使われない。「人民の海」には決して交わらない階層(レイヤー)が存在するのだ。
 なるほど、先進国であっても、彼らのような戦術を取れるのであれば、徴兵制で連れてきた兵士も使いようがある。
 しかし、「お宅の息子さんは、正規軍の盾となるために射的の的として死にました」などという話を、どのような理屈をこねようと市民に納得させることのできる政治家は先進国にはいまい。
 勿論、嘘でもハッタリでも納得させてしまえば勝ちではあるが、高度消費社会の生活者とは、良くも悪くも情報読解力(リテラシー)が高い。ひとりでも納得のいかない遺族がいれば、ネットやメディアで声を上げ、その声は即座に他の不満を持つ遺族と連結する。それが「炎上」する前に抑えようと思えば、逸早くそれを打ち消すだけの強度を持った論旨を展開し、不満の声のネットワークを寸断しなくてはならない。それも中国やロシアなどのメディア統制のやり方を見るとやりようはいろいろあるようだし、必ずしも不可能というわけではないのだが──何せよ、これもまた余計なコストの掛かる話ではある。
 そこにコストを掛けるくらいなら、最初から自己責任で納得尽くで入隊し、意欲も高い志願兵で軍を組織した方が話は早い。そして、そのような奇特な人材は貴重なので、ますます教育と装備に金を掛けて生存性を高めてやる必要があり──そんなわけで、現代戦を戦う先進諸国は「徴兵制」を捨てたのだ。
 
 無論、この「志願制」主流の兵制が未来永劫続くとは限らない。
 我が国ひとつをとっても、戦国初期には各地の領主が「徴兵制」で農民から兵を集めていたが、織田信長兵農分離で「志願制」の軍隊に切り替えた。農繁期に動員しづらいとか、鉄砲などの専門知識の必要な機材が増えたなどの事情がそこにはある。
 やがて幕末、長州の高杉晋作は官僚化した士族に見切りをつけて、商人や農民からの「志願制」で奇兵隊を組織した。京で血刃を振るった新撰組もまた、身分を問わず全国の志士浪人からなる「志願制」の治安部隊だった。
 だが、維新後、戦後の処遇に不満を持って武装蜂起した奇兵隊や薩摩士族達を制圧したのは、全国から集められた「徴兵制」の軍隊だった。
 志願制の軍隊、徴兵制の軍隊、あるいはPMCのような傭兵を中心とした軍隊と、時代時代で兵制の在り方は異なってゆく。
 本稿では「志願制」の軍隊が先進国の主流となっていると述べたが、そのことと先進国の軍隊の在り方が「現代」という時代に最も適しているかどうかはまた別である。我々がその人命軽視の思想から後進国と嘲る国々や政治集団こそ、これからの主流となってゆくかもしれない。私達は私達なりの倫理と合理性に基づいた社会に生きているが、しかしそれが歴史の検証に耐えうる強度を持った社会かどうかは、未来になってみないと判らない。
 だが、少なくとも私達の社会は、人命を無造作に軽視する行為に、倫理的にも経済的にも耐えられない。それは勿論、「表立って」でしかない側面もあり、暗黙の内に見捨てている人命も決して少なくはないのだけれど、それを「必要な犠牲(コラテラル・ダメージ)」と公然と割り切って受け留めることはできない。それをやってしまえば、「社会」が「社会」として成り立たなくなる。どうしてもやるというのなら、指導者は皆を納得させる言葉を平素から積み重ねなければならない。必然として時間とコストが掛かる。古今、戦場で最も重要視される意思決定の早さを、私達の社会は体制としては保証できないのだ。
 
 その脆弱さ、軟弱さ、意思決定の遅さゆえに、私達はいずれ滅びの日を迎えるのかもしれない。
 しかし、まぁ、どんな社会でも一長一短があるわけで、それ故に栄え、それ故に滅びるのだ。
 そうして訪れる滅びの日なら、それは宿命として粛々と受け留めるべきであろう。自らの存立基盤(アイデンティティ)を最後まで見失わず、そこに殉ずることができるのは、社会的存在である人間の特権である。
 無論、最後の最後まで足掻いて見せるのは、これはまた生き物としての人間の別な義務ではあるが。
 
 さて、すっかり長くなってしまったが、この様に私達の社会は倫理的にも財政的にも技術的にも「徴兵制」に耐えられない社会となってしまっているので、政治的イシューとして議論したり心配するだけ無駄である。無理やり実施してもどうせすぐに予算が確保できなくなるか、「予算不足で教育不足の使えない兵隊並べて戦争なんかできるか」という話になるので、ほっといてもいい。
 世界の兵制の主流がこの先はどうなるか判らないが、今の日本で本気で「徴兵制」を成立させようするなら、社会の在り様を引っくり返すくらいの大変革が必要で、そんなものが実現するなら「徴兵制」よりそっちの方が大問題なのでまずそちらを心配すべきである。
 したがって、軍事的観点から見る限り、どこをどう引っくり返しても考えるだけ時間の無駄という結論にしかならないので、この話はここで終わるのだ。
 
 さて、明日はもうひとつの課題「『規律』の学習に何らかの強制労働機関が必要なのでは?」という話について。
 ……いや、気分が乗らなかったらこのままスルーするかも知れんけども。