相田 裕『GUNSLINGER GIRL 9 (電撃コミックス)』
- 作者: 相田裕
- 出版社/メーカー: メディアワークス
- 発売日: 2007/11/27
- メディア: コミック
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下に転載した私の文章のような長文ではないので、念のため。
自分のブログでも書きましたが、私は表現技術として表面上、恐るべき精緻さで「悲しみ」が描かれているだけに、基本的な世界観の恣意的な歪みが鼻につき、素直に悲しめませんでした。
だって、「公社」なんて、あんな児童虐待の極みみたいな機関を国家が運営し、EU諸国が暗黙の内に承認してましたなんて、ばれたらイタリア政府転覆どころかEU崩壊にすら繋がりかねない大スキャンダルです。
そうまでして「公社」を維持せねばならない敵としては、「五共和国派」は弱すぎる。作中でさえ、間もなく殲滅されようとしていますしね。
その意味で、冷戦時代の「ソ連」かWWIIの「ナチスドイツ」くらいの敵でなければ、正当化できないほど「公社」はアンモラルな存在なのです。
ただ、「作者もそれはとっくの昔に承知の上のファンタジーなのですよ」と作中のそこかしこにメッセージを埋め込まれているので、そこを直接責めると野暮になってしまいます。
おそらく「五共和国派」の殲滅後、敵を失った「公社」は政府自らの手で存在自体を抹消されるでしょう。今回のエピソードそれ自体を含め、それを暗示させる要素はちょこちょこと存在します。
いずれ切られるであろうそのカードを免罪符として、非常に危ういバランスでこの作品は成立しています。
その構造も含めて、非常に「いやらしい」作品です。
私もたいがい悪趣味な方なのでその「いやらしさ」を受け入れて読んでいますが、しかし今回のように「さあ感動しろ」とこられても引いてしまった気持ちをうまく作中に流し込むことができず、ひどく居心地の悪い読後感にとどまってしまいました。
「物語」における基本設定、あるいは世界観は恣意的に作ってはならない。
現実世界の在り様、人間のコミュニケーションの本質に対して、まっすぐに直視し、希望も絶望も素直に受け留めて世界を構築しないと、読者の感動を妨げてしまう。
物語の強度(説得力)に重大な瑕疵を負わせることになる。
作劇は素直たるべし。
今回のこのエピソードから受けた私の教訓は、その一点に尽きます。
ちなみに転載の許可を取ったついでに、すらさんとは電話でもこの話の続きをしたのですが、「元々、ファンタジーとして読んでいるので、逆にそこをリアルに創り込まれると引く」というニュアンスのリアクションが返ってきました。
う〜ん。
でも、自分はそこを認めてしまうと、「現実世界の悲劇的要素を都合よく寄せ集めて悲しみに浸る読者(自分)」というメタ的な構造が鼻について耐えられないんだよね。
いや、まぁ、「物語」の消費とはすべからくそうした側面を持つので、そこの閾(しきい)値をどこに置くかという個人的な課題に収束してしまうのだけど。
あともう少し補足しておくと、「ディティールをリアルに書け」という話をしているのではなくて、むしろここまでディティールを積み重ねてきてしまった以上、そろそろ物語の根幹となる世界構造についてもっと説明を重ねて強化しておかないと、表層(ストーリー・レイヤー)で展開する物語への強度(説得力)が弱くなり、読者の心へアプローチする力が弱まってしまうように思うのだ。
たとえば、この作品は実在する子供兵の存在を記号として持ってきているのだけど、しかしその一方で「現実社会で何故、子供兵が産まれるのか」というその社会の経済や文化、倫理の構造までは持ってきていない。中途半端に持ってきてしまうと、他の要素との整合性が問われて物語の構造計算が複雑になり、力のない作家なら破綻してしまうから、あくまで記号(スタイル)として引っ張ってくることに作り手側が意識して留めているのだろう。
しかし、「主要登場人物(アンジェリカ)の死」について丁寧に描けば描くほど、そのことが上記の引用部分でも指摘したような「政治学的に非現実的なアンモラルさ」を何の説明もなく放置していることによって、ひどく現実感のない「創られた悲しみ」として読み手の感情から乖離してしまうように感じられるのだ。
ましてやそれが「死」という本来、深い情動を引き起こしてしかるべきイベントが懇切丁寧に描かれているにも関わらず、そこにさっぱり感情移入できない傍観者と化している読者(自分)という状況がブーメランのように戻ってきて、一番アンモラルなポジションにいるのが自分だということに気付かされてしまう。
読後の自分の居心地の悪さを詳しく解析するなら、そういったことのように思う。
いや、そんなことはない。
こっちは「記号」は「記号」として消費して楽しんでるんだから、そんな楽屋裏をばらすような話をするのは野暮だ。
──という意見もあるみたいなんですけどね。
いや、しかしすべての「記号」は、それぞれに膨大な背景情報を持つインデックスなのであって、「記号」の集積体としての「物語」を愉しむとは、その背景情報込みで消費するということではないのか。
「記号」の組み合わせ次第で、「物語」の意味が喪失してしまう組み合わせだってあるだろうに、そこは無視していいのか。
つか、『電脳コイル』的な表現をするなら、そうしたNull(ヌル)の空間的に発生している意味を喪失した「物語」を「愉しむ(消費する)」という行為は、消費者サイドの内面でどのような意味を持つのか。
……まぁ、考えてすぐに答えの出る話ではないので、今日はここまでにしますけど。
うーん。