積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

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『ユリイカ2007年12月臨時増刊号 総特集=BL(ボーイズラブ)スタディーズ』

 ようやく読み終えました。
 結局ひと月がかりか。むぅ。
 
 さて、前にもここで書きましたが、自分は男ですし性的嗜好もノーマルだと思っている人間なので「BL作品」を腐女子の皆さんのような「正しい読み方」で読むことはできない。
 いや、仮に自分に同性愛の嗜好があったとしても、「BL」が女性が異性に仮託した性的ファンタジーであるとするなら、自分は男である限り「正しい読み方」の立ち位置に立つことはできない。
 また創作者としても、男には「BL的な作品」「BLとして消費される作品」は描けても、「BL」そのものを描くことはできない。
「男」にとって「男性性」は「ファンタジー」ではなく、身体から切り離すことのできない血肉の通った「リアル」だから。
 これは性的な物語ジャンルにつきまとう宿命として受け入れざる得ない。
 しかし、まぁ、あらゆる物語は「誤読」されるものであり、「誤読」を前提としたコミュニケーションというものも実はあってもいいのではという気もするので、ここは積極的に「誤読」に挑んでみよう。
 
 で、ここからが本題。
 上記にも書いたように、自分はBLを「正しく読む」ことはできないのだけど、しかし生物の進化の過程に敬虔な驚きを禁じえないように、僅かな期間で驚くほどの多様性を示すBL作品の群体に知的な好奇心を感じずにはいられない。
 例えば「BL」というジャンルはその基本構造として、現実の「ゲイ」からイメージを簒奪し、女性が自らの性的リビドーを充足できるように都合よく改竄して使用しているという「イメージの簒奪」が行われていることは否定できない事実だ。無論、これは「BL」に限らずあらゆる「物語」がそのイメージの源泉に対して宿命的に負っている「原罪」であるのだが、その「原罪」への罪悪感が作品に複雑な光を投げかけ、創作活動の駆動力にさえなっているさまは実に興味深い。
 と、同時に、逆に屈託なくイメージを貪っているような快楽主義的な作品もある。
 また「ゲイ」的なイメージを中心としながらも、現実の社会の多様性をそのまま映し取るように、柔軟に表現手法を変えつつ、学園ものからリーマンもの、ヤクザに軍隊、アラブの王族(…?)と貪欲にイメージの採取対象を拡大してゆくその在り様は、手塚治虫以来の日本の漫画史やアニメ史と比較することで、あらゆるメディアの誕生と進化に通づる法則性を浮かび上がらせることも可能となるだろう。
 
 しかしまぁ、サブカルとは言え「研究(スタディーズ)」というくらいだからそれなりにアカデミックな文章も載ってるんだけど、その一方で堂々と野郎の股間を晒すようなカットも載っていたり、そういうのに抵抗ないのか腐女子のお嬢様方は、ってのも思ったですよ。
 巻末のレビューを読む限り、リビドーを開けっぴろげに表現する作品から、直接描写を避けて繊細な心理描写を積み重ねる思索的な作品まで、なべて一律に扱われているんですね。
 これは男性向けのメディアで言うと、エロゲーを語るのに、凌辱ものから葉鍵TYPE-MOONクラスの作品群までを同列に並べて語るようなもので、メディア内での棲み分けがまだ完成していないということでしょう。
 まぁ、サブカル研究の一分野として見ると、葉鍵の作品には一線級の社会学者までこぞって言及したがるくせに、「凌辱ものエロゲー」とか「企画ものAV」とかほとんど誰も真面目に分析しようとしない男性向けメディアなんかよりはましなのか。
 下半身系の文化って、一般に同時代には手を付け辛いものですしね。
 その意味で、女性文化論の一環として、ごく初期からアカデミックな分析と論考が、性的なタブーをものともせず、自由に、かつ包括的に積み重ねられてきたこの「BL」という文化(カルチャー)は、文化研究学(カルチュラル・スタディー)として意外と大きな鉱脈を掘り起こす可能性を秘めているかもしれませんな。