義忠『王子様とアタシ』第3回
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「……ふう、やっと僕の話を聞いてくれるんだね、マーキュリー」
「…………」
消えやしねぇよ、この幻覚。畜生。
駅前のファミレスで、アタシは再び目の前に浮かぶぬいぐるみから目を逸らし、手元のハンバーグの切れ端にフォークを突き立てた。
あの後、駅前のビジネスホテルで夜まで爆睡した。家財道具を売り飛ばされたとは言え、多少の蓄えはある。預金通帳と印鑑は常に持ち歩くようにしていたのが幸いした。いつ何時、出張が入るか判らない雑誌編集者の嗜(たしな)み──と言えば聞こえはいいが、勿論、勝手に同居人のパチンコ代にされたくなかったからでもある。
まぁ、そんなわけで、当座の活動に困らない程度の金は手元にあるので、一泊分のホテル代くらいは何とでもなる。
目が覚めて、視界の片隅でまだモゾモゾと動いているバッグをなるべく見ないようにしながら、携帯で同居人──もはや「かつての同居人」だった男の番号を呼び出す。寝る前は頭がよく廻ってなかったが、考えてみれば真っ先にやるべき話だった。あの男には、料金アタシ持ちの携帯を持たせてある。
『……お掛けになった電話番号は、お客様の都合によりお繋ぎできません』
着信拒否かよ!?
この世に自分で料金を払っている携帯から着信拒否を喰らうほどムカつく話がないことをひとつ学習すると、後で公衆電話から掛け直しちゃることを誓って携帯を切った。
それからバスルームでシャワーを浴び、鏡の前で軽く身繕いを済ます。
しばらくカットに行っていない所為で、元々、ショートだった髪がおかっぱみたいになっていた。一二時間以上の睡眠でも疲れが抜けきれなかったのか、目が充血して真っ赤だ。まぁ、寝てる間もずっと泣いてたみたいだったから、その所為かもしれないけど。
結局、何がショックと言って、いい歳して男に逃げられたくらいでここまでダメージを喰らっている自分の存在が一番ショックだった。まったく、初めての失恋と言うわけでもないのに。つか、そもそもそんな恋愛感情で付き合っていた関係でもないってーの。飲み屋で意気投合して、目が覚めたらアタシん家(ち)で一緒のベッドで寝てて、後はそのままずるずると居つかれただけの、そんなどこにでもあるような話なのだ。
それが、こんなおかしな幻覚見るほどショックだったのか、アタシゃ。
重い気分でベッドルームに戻ると、ぬいぐるみを突っ込んだままのバッグがごろごろとベッドの上を転がっていた。
「…………」
男に逃げられたばかりの二七の独身女性としては、他にも直視しなければならない現実がいくらでもありそうなのだが、さて、とりあえずこのふざけた幻覚をどうしてくれようかと、アタシは天を仰いだ。
で、ホテルをチェックアウトして、ファミレスでハンバーグ・セットをつついていると、ぬいぐるみ入りのバッグがばんばんと勝手に飛び跳ね始めた。周囲の冷たい視線にさすがにほっとくわけにもいかず、やむなく引っ張りだしたぬいぐるみがのたまったのが、先刻のあの台詞だ。
アタシはフォークを突き立てたままのハンバーグの欠片を口に運ぶ気も失せ、そっと周囲に目をやった。夕食時の駅前のファミレスはそこそこに込んではいたが、やはり平日だけあって家族連れよりも仕事帰りの勤め人や学生達の姿が目につく。テーブルの間を忙しげに飛び廻るウェイトレス達を含めて、こっちを気に留めていそうな人間はいない。
……こうしてテーブルの上をぷかぷかと黒猫のぬいぐるみが浮いているにも関わらず、だ。
「さっきバッグが飛び跳ねていた時には、あんなに注目を浴びてたのに……」
額に手を当ててうめくアタシに、ぬいぐるみは得意げに言った。
「魔法のおかげさ。今の『ボクの姿』には、普通の人間には『見えない』ように魔法が掛けてあるんだ。だから、バッグの中なんかに『隠される』と魔法の効果が出なくて、ただの物体として認識されてしまう。それで、動きで注目されるようなこともおきるんだ」
「やっぱり、幻覚じゃない!」
「だから、違うって! もう、めんどくさいなぁ。しょうがない、さっさとこいつで思い出してもらうか──」
そう言って、骨のない、へなへなの右腕を小器用に背中へ廻すと、ぬいぐるみは自分の身体の五倍はありそうな長い棍棒のようなものを引き抜いた。
「君のマジカルステッキだよ、マーキュリー!」
「いや、そんな殴られたら痛そうな、物騒な突起物だらけの棍棒なんて知らな──」
「じゃあ、いっくよ〜っ!」
「ちょっ! そんなもんで殴られたら死──」
「大丈夫。痛いのは最初だけだから」
「待て、バカっ! 下手な男の決まり文句みたいなそんな台詞で、おまえ──」
皆まで言わせず、ぬいぐるみが大上段から振りかぶった棍棒は、直上からアタシの脳天へと襲いかかった。
その瞬間、これまでの人生で間違いなく三本の指に入る激痛が、頭から爪先までを稲光のような火花とともに駆け抜けてゆく。
と同時に、ある意味、それ以上に「激痛もの」の封印されていた記憶が、その時の状景や感情とともに、時系列を無視して一斉に迫ってきた。
そう。
中学二年──アタシ達が十四歳だった、あの頃。
四人の親友達と過ごした、あのかけがえのない日々の記憶が。
「思い出したかい、マーキュリー?」
「……思い出したわ、ルナ……」
アタシはファミレスのテーブルに突っ伏したまま、うめくように呟いた。
「そうか。よかったよ。これでだいぶ話がしやすく──」
「……年端もいかない中坊時代に、夜な夜なキャバ嬢みたいな痛いコスプレで街を徘徊してた記憶を」
「いや、まぁ、その辺は見解の相違というか……子供には結構、受けが良かったみたいだし」
「ガキはね、ああいう原色系でひらひらしたフリルつけた格好で出てきてやれば、何だって喜ぶのよ」
言いながら、自分自身、初めて変身したときの妙な高揚感とはしゃぎっぷりを思い出し、改めて鬱になった。ええ、まったくガキでしたよ、あの頃のアタシは。
「で、何の用よ、今更。あの時、あんた等の世界までみんなで乗り込んで、ラスボスのクィーンぶちのめして、めでたしめでたし、って落ちでまるく収まったんじゃなかったの?」
半分、何かを誤魔化すように不手腐れた口調で訊くアタシに、ルナはどこか遠い目──まぁ、ぬいぐるみのフェルト地の目に遠いも近いもないが、とりあえずそういう体(てい)で視線を逸らす。
あれ、ちょっと待て。こいつ、前にあったときはメスじゃなかったっけ?
「……それは、同じ頃、テレビでやってた『何とかムーン』っていうアニメの方だよ。設定や格好が良く似てたんで、子供たちに良く間違われてたけど、君まで間違えないでよ」
黄昏(たそがれ)きった口調でルナは言った。
まぁ、ネコだのぬいぐるみだの憑りついて人語を喋る化け物つかまえて、今更、オスもメスもないか。
「続けていいかな」と有無を言わさぬ冥(くら)い響きでルナは訊ねてきた。
正直、ろくでもない話を聞かされるんだろうという確信はあったので、今すぐ逃げ出したかったのだが、骨格のないふにゃけたぬいぐるみが発するにしては、あまりにおどろおどろしい威圧感に、結局、逃げ出すタイミングを見失う。
で、それから小一時間に渡って聞かされた話は、案の定、ろくなもんじゃなかった。
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