積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

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監督:あおきえい『空の境界 第一章「俯瞰風景」』

空の境界(上) (講談社文庫)

空の境界(上) (講談社文庫)

空の境界(中) (講談社文庫)

空の境界(中) (講談社文庫)

空の境界(下) (講談社文庫)

空の境界(下) (講談社文庫)

 いきなりでなんだが、小説家としての奈須きのこは「判りやすさ」という意味合いで言うなら、決して上手い作家ではない。
 というより、小説の執筆に当たって「判りやすい」という点にさほど重きを置いていない。
 作品やその周辺でのインタビューを読む限り、それなりの読書量はこなしているようだし、教養も理解力もある人物のようだから、判りやすく「書けない」というより「書く気がない」のだろう。事実、劇場版のパンフ上のインタビューで、WEB上で『空の境界』の第一章を公開した際、「読者を突き放すためにわざととっつきにくく書いた」と言い放った辺りにすべては集約されている。
 ……まぁ、あえて指摘するまでもなく、この手の自意識過剰は作家の卵が必ずかかるハシカのようなものなので、とやかく言っても始まらない。同じことをのたまった有像無像の卵達のほとんどが卵のままで終わっている中で、曲りなりにも功なり名を上げ、自分の会社のみならず出版社からアニメ制作会社まで潤す実績を挙げているのだから、このくらいの発言は許されてしかるべきだろう。
 
 しかし、事は自意識の問題というより、「物語」に対する哲学の問題なのだ。
「物語」とは文章であれ映像作品であれ、クリエイター側から提示されたイメージの断片からなる暗号(コード)が、読者や視聴者の脳内で解読(デコード)されて完成する。解読(デコード)の際の鍵は読者がそれまでに蓄積した知識や教養だ。逆に言えば、読者の知識や教養が当てにならない場合は、読者が理解できるレベルまで表現の水準を引き下げなければならない。
 ただし、これはクリエイター側が読者の脳内で完成する「物語」のイメージをコントロールしたい場合の話である。
 逆に「コントロールなどしない」という選択もある。
 読者の脳内で完成する「物語」のイメージなぞ、読者一人ひとり、ばらばらでいい。その瞬間瞬間に生起する偶然性(インプロビゼーション)すらエンターテイメントの一要素として許容する考え方だ。
 この思想を持つクリエイターは、時に読者の積極的な「誤読」すら望む。
「誤読」の迷路を突破してこの俺の背中に追いつけるかと挑発し、いっそ誰も追いつけなければいいとさえ嘯(うそぶ)いて嗤(わら)う。
 しかし、確かにそこに追いつけた読者に対しては、「物語」の無上の快楽を授けよう。
 そうして読者の抱く「物語」のイメージの支配などおくびにも出さぬまま、読者そのものを支配する。
 いや、もう、まったくもって困ったものだが、小説家としての奈須きのこはおそらくはそういう類(たぐい)のクリエイターなのだろう。
空の境界』という小説は、そんなひねくれた作家の自意識が見事に凝縮された処女作であり、したがって読者にとって不親切にもほどがある作品なのである。
 まぁ、扱いやすい処女などこの世にいるかと問われれば、それもそうかという話ではあるのだが。
 
 で、ここでようやくこの劇場版の話にたどり着く。
 この劇場版は原作を正確に映像化することを目標として作られたという。
 事実、原作を知る一読者として、溜息が出るほど完璧な映像化であると思う──読者を突き放す不親切さを含めて、であるが。
 問題は「だからつまらない」とはならない点だ。
 本筋を目眩ます韜晦。抑制された台詞。インサートされる朽ちた街並み。冷たい月明かりに晒された、冴え冴えとした夜景。……。
 決して「判りやすさ」に走らないスクリーン上の情景に必死に喰い下がって解読(デコード)してゆけば、意外とシンプルな物語構造が見えてくる。
 解読のキーは、着物に赤いジャケットという異装のヒロイン・式の情念だ。
 その点、この劇場版は実は原作小説よりはるかに「判りやすく」できている。
 無口なヒロインは、自分が何を思っているかなど、くどくどと説明などしない。
 だが、かすかに浮かぶ表情の綾(あや)。投ぜられた視線の行方。
 そして声優の演技が、スクリーンの向こうにうっすらと浮かび上がる「物語」に血肉を通わせ、ぬくもりが宿る。
 それが何より雄弁にこの物語の「本筋」を語っているので、そこに気付くとこの映画はあまり迷わずにすむのだ。
 
 では、その「本筋」とは──
 何、たいした話ではない。
「惚れた男を喪いたくない」というありふれた、けれどそれだけに力強い乙女の純情、ただそれだけなのだ。
 
 特にクライマックス後の式が自分のアパートのベッドの上で、男の背中を眺めながら無造作に寝返りを打つ場面のエロティズムにははたと胸を衝かれましたよ。別に肌をはだけてるわけでもないのにね。相手の男を信頼しきって、気を緩めてそこに存在しているだけで、女という生き物はかくも艶っぽい生き物なのか。
 式役の坂本真綾の演技もね。媚びるでもなく、ただ気持ちを緩めてそこに在る。それだけで「女」としての存在感をくっきりとスクリーンに焼き付ける演技力には、率直に頭を下げざる得ない。
 ある意味、このシーンが成功したことで映画全体──事によると、全7編ものシリーズ全体の成功さえ約束されかねないほど、重要なシーンだったと思える。
 
 映像作品というのはそれ自体が「暗号(コード)」の集合体なのだけど、原作つきの場合、映像クリエイターによる原作の「解読(デコード)」でもある。
 その意味で、この劇場版は難解さを誇る原作の魅力を判りやすく引き出した優れた「解読(デコード)」作品なのだと言える。
 
 そんなわけで引き続き『第二章』も観に行くことになったわけです。
 そっちのレビューは……まぁ、その内、気が向いたらということで。