宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(『SFマガジン』2007年7月号〜連載中)
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/01/25
- メディア: 雑誌
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で、この論説の要旨はだいたい以下のようなものだ。
- グローバリゼーション化、ポスト・モダン社会の深化によって、現代人は過剰流動性*1に晒され、自己肯定感が得られず精神的に不安定になりがちである。
- そうした状況へのひとつの適応として、「キミとボク」の関係性だけで世界を捉えようとしたのが「セカイ系」である。
- しかし更に激化する社会の過剰流動性の前に「セカイ系」は適応しきれず、主人公はイノセンスなまま、パートナーの少女だけが戦ったり、罪を犯したり、ヤンデレたりと「ケガレ」を引き受けさせられるような、いびつな作品が増えてきた。
- やがて「たとえ罪を自分で引き受けてでも行動しなければ、生き残れない」との認識が、『バトル・ロワイヤル』『DEATH NOTE』『コードギアス』などの「決断主義」作品群の誕生を促した。
- しかし思慮を欠いた「決断主義」は失敗したときの被害が大きく、往々にしてコミュニティを破壊してしまうので、完全な解決策とはいえない。
- そこで、「終わりの日」を見据え、流動性を内包したゆるやかな関係性の中で自己承認を得つつ、そこで埋まらない喪失感は「痛み」として受け入れ、人格的成熟の基盤とするべきだ、との考えが生まれた。これが宮藤官九郎、木皿泉、よしながふみの諸作品に代表される「ポスト決断主義」の作品群である。
- これが今のサブカルチャーのトレンドであり、今ごろ論壇に「セカイ系」を紹介している東浩紀は、既に周回遅れで万死に値する。
- ましてやその周回遅れの東浩紀の理論を盾に自己正当化して「セカイ系」に耽溺する腐れオタクは、死に損ないのゾンビなので、とっとと成仏してください。いや、成仏しろ。つか、オレが成仏させてやる。
- バーカバーカ。
……多少の読み落しがあるかもしれないが、彼の主張は概ね上記のような要約でいいだろう。勿論、微妙なニュアンスに属する部分までフォローできているわけではないし、長くなりすぎるので意図的に落としたポイントもある。機会が得られる方は、実際の文章の方も当たられることをお勧めする。
なお、繰り返すが、上の文はあくまで私義忠の視点による「要約」でしかないので、宇野常寛に反論したい方はちゃんと「本人の文章」を直接参照されること。
間違っても上の文だけ読んでヒートアップして、本人に突っかかるようなみっともない真似はするなよ。オレが迷惑するから。<おい。
で、これに対していろいろ言いたいこともあるのだが、大概、長くなっているので、続きは明日かこの週末にでも改めて。
*1:仕事も恋愛も友情も、別に特定の誰かである必然性はなく、機能や役割によっていくらでも取り換え可能であるというようなこと。