積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

■Twitter               ■Twilog

■小説を読もう!           ■BOOTH:物語工房
 
各種印刷・製本・CDプレス POPLS

押井 守/岡部いさく『戦争のリアル Disputationes PAX JAPONICA』

戦争のリアル Disputationes PAX JAPONICA

戦争のリアル Disputationes PAX JAPONICA

 ちょっと妙な方向からボールを投げることになって恐縮だが、関東圏では今期MXTVでのみ放映されている深夜アニメで『ウェルベールの物語』という番組をご存じだろうか。中世ヨーロッパ風で剣と先込め式のフリントロック銃と妖精と魂の宿る戦車が混在する世界観で、女盗賊と婚約者を刺して逃げ出した王女の女の友情を絡めた道中記──というあらすじだけでも、いろいろ突っ込みを入れたくなるのだけど、ここはぐっと我慢して先に進む。
 この作品は昨年既に第1期1クールが放映済みで、その後、何だかんだあって舞台は王女の母国のウェルベール王国に移り、そこへ隣国が攻め込んできたというお話を今週放映していた。
 で、当然「戦争だ!」という展開になるのだが、第三国から接収してそのまま慣熟訓練もなしで侵攻作戦の旗艦として大活躍する隣国海軍の巨大戦艦とか、それに襲いかかる漁船に毛の生えたウェルベール海軍艦隊とか、いきなりジェット戦闘機(笑)がカタパルトから発射されてしかもその操縦管を握るのが王様と王子様と王女様と女盗賊とか、もはや突っ込みとかどうとかいう次元を越えて、歴史の証言者となってしまった歓びと哀しみに思わず膝を折らざる得ない、というか……。orz
 ここでこんな話から始めたのは、別に制作者サイドの軍事知識のなさをあげつらうのが目的ではない。こんな技術開発の歴史や合理性をあっさりと無視したのっぺりとした技術観で「軍事」や「戦争」を語ろうという感性の存在であり、それが集団芸術であるアニメのコンテンツとして企画が成立して放映までされてしまうこの国の不思議さである。
 
 本書では、そうしたイメージと戦争の関係性を「装備」という観点から掘り下げる。
 と言っても、戦車オタクで映像作家の押井 守が、軍事評論家の岡部いさくを相手にくだを巻くという、まぁ、基本はそんなミリオタ・トークなのだが、「戦争に勝てる軍隊は、ぱっと見で勝てるイメージがしないとダメだ」という押井の指摘は、映像作家らしい卓見だと思う。
 この言葉の意味を少し解題するなら、「戦争」という行為は究極の合理主義的行為であり、それはその時代、その社会状況における技術や経済の合理性と軌を一にした行為であることによる。したがってその行為に参加するプレイヤー(兵士)達の精神性も、より合理主義に徹底した方が勝つ。それは端的には装備や行動に顕れる。斎藤道三が若き信長揮下の将兵の粗野だが合理主義に徹した装備と隊列を目にして、戦慄を覚えたとの逸話もこれによる。
 軍隊に限らず、官僚機構であろうと会社組織であろうと、「勝てる組織」とは観念ではなく現場の現実が求める合理主義に立脚しなければならず、それは必然としてビジュアルに顕れるものなのだ。
 これは逆に言えば、これを「勝てる軍隊のイメージ」と評価する側にも、その時代なりの合理性を無意識の内にでも評価するバランス感覚のようなものが存在していなければならないことを意味する。そこが歪んでいれば、歪んだイメージが逆に組織の本質を侵食し組織や社会の敗滅へと繋がることもあるだろう。観測者と被観測者は、当事者達が望むと望まざるとに関わらず、イメージによって常に運命共同体とならざる得ないのだ。
 そうした観点から考えてゆくと、前出の作品のような妙ちきりんな戦争観の作品の存在が指し示す意味合いは、意外に深刻なのかもという気がする。別にあらゆる作品がミリオタを満足させなくてはならないということは勿論、ない。だが、それだけにそれを意図しない作品でこそ、その社会の根底に流れる最大公約数となる戦争観を素直に反映しているとも言えなくもない。
 まぁ、プロの軍人でさえ「前の戦争」はイメージできても、「次の戦争」はなかなかイメージできないと言うしなぁ……。
「戦争」像を正確にモデリングするというのは、やはりなかなか難しい。
 
 それはともかく。
 本書については、岡部いさくがエアパワーやシーパワーには詳しくても陸戦兵器はそれほどでもないので、その辺の突込みが足りないのがちと残念。それがあって今年のトークイベントには佐藤大輔が呼ばれたのだろうけど。
 いずれにせよ、「イメージと戦争」という観点から見た戦争論の本としてちょっと面白い本ではあるので、興味をお持ちの方は是非。