積読日記

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岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる (新潮新書)』

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

 ……いや、まぁ、一時はオタキングを尊敬の眼差しで眺めたこともある身としては、死に水ぐらいは汲んでやらねばと思いまして。
 
 本書の概要については、既に以前、コミケ会場で買った『オタク・イズ・デッド』を読んで大体把握しているし、基本的に彼が本書で言っていること自体は肯定するのだけど、素直に全肯定できないのは、「努力するオタクだけが本物のオタクだ(った)」というオタク感が今ひとつ腑に落ちないためだ。
 
 本書の弁に従えば、自分はオタク第2世代に属することになる。
 確かに少女マンガからミリタリーや政治経済まで網羅する博覧強記型のオタクは、自分達より後の世代にはあまりいない感はある。それも当然と言えば当然で、いわゆるオタク系とされるそれぞれの分野だけで、その情報量の総和は既に個人に処理しきれるボリュームをとうに越えている。にも関わらず、インターネットや携帯などによるコンテンツのアクセシビリティはますます向上し、コミケ会場に並ばなければ入手できなかったような同人誌もネット通販でどこでも買える。
 いっそ金はあっても消費する時間がないという状況さえ発生する。大体、オタキング自身、ゲーム系コンテンツの話になると、しばらく前から完全スルーだったしな。まぁ、まっとうな社会人が、クリアするのに何十時間も掛かるゲームを年にそう何本もこなせるわけもないのだけども。
 その意味で、もはやオタク第1世代、第2世代にいたような博覧強記型のオタクは、物理的にも経済的にも存在し得ない、ということになる。
 そこまでは本書でも触れられているのだけど……。
 
 いや、しかしまて。
 本書で「オタク貴族」だの「オタク・エリート」だのと持ち上げられているこの手の博覧強記型オタクや創作型オタクは、本当に「努力と研鑽の結果」なのか?
 いや、創作型には多分にそういう側面もあるのだろうが、博覧強記型は好奇心の赴くままに情報を摂取していったら結果としてジャンル横断的な知的体系が形成されたというだけのような気がする。とりあえず自分はそうだ。
 とすれば、それで情報処理能力がオーバーフローを起こさなかったのは、オタク文化がまだ未分化、未成熟で、情報量の総和がほどほどだったからというだけに過ぎない。結局は環境の問題だ。少なくとも、自分は「かく在りたい」と目指した研鑽の末に、今の自分が在るわけではない。無論、別に後悔もしていないが。
 で、ここまでの理解も本書と一致するのだが、結論としてこの世の終わりのようにオタキングが嘆くのがよく判らない。
 だから環境の問題で、個人の心性が堕落したのどうのという問題ではないのだ。
 今後も経済や技術、文化の環境が変動すれば、また変わる。風に吹かれて形を変える、雲のようなものだ。
 まぁ、古き佳き互恵主義に基づくオタク・コミュニティーが喪失することへの哀切は理解できるのだが、それを持って「オタクは死んだ」と言い切ってしまうのはいささか牽強付会に過ぎるように思う。
 せめて「昭和型のオタク・ロールモデルが死んだ」といった辺りで留めとけばいいのに、とも思うが、まぁ、そんな地味なテーマでは新書は売れんわな。
 
 とりあえず、オタキングが今のオタク・シーンについてゆけないと敗北宣言をしたのは判った。
 オタク第2世代の生き残りとして、その事実へ感ずる哀切はある。
 もって瞑すべし。南無南無。