積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

■Twitter               ■Twilog

■小説を読もう!           ■BOOTH:物語工房
 
各種印刷・製本・CDプレス POPLS

第二次惑星開発委員会『PLANETS Vol.3』


 ご存じ、気鋭のサブカル評論家、宇野常寛タン編集の評論同人誌で昨年5月に出た号。買いそびれてたのを夏コミで見かけて入手したもの。ちなみに宇野タンには会えなかったけど、お隣のブースには東浩紀が売り子をしてて、「おお、ナマ東だ」とかミーハーにはしゃぎながら通り過ぎました。<どうでもいい。
 で、この号は、「LOVE2007」(笑)と称して、恋愛コンテンツや現代の恋愛観について特集。まぁ、「オタクどもよ、書を捨て恋をしよう!」という話で、いや、それ自体は決して悪いテーマでもなんでもないのだけど……。
 う〜ん、宇野タンの論説は、読めば読むほど何がやりたいのか良く判らなくなるなぁ。
 
 宇野タン個人の戦略目標として、「サブカル論壇での影響力拡大」というパワーゲームを勝ち抜こうとしてるんだな、と言うのはいつものあけすけな物言いで本人自身が率直に認めてるので、そこは別にいいとして。
 問題は、その「サブカル論壇サバイヴ・ゲーム」以外の、評論家「宇野常寛」としての思想的な落し所がよく判らない。
 えっとね、「国益優先」あるいは「経済発展主義者」的な視座から、オタクないしは若い世代がリアルな恋愛に臆病になったり忌避したりという状況を憂う、というのなら判るのね。恋愛資本主義に踊らされようが、出来ちゃった婚だろうが、男女が結婚して子供作って、家建てて、マイカー持って、子供の教育ローン組んでという消費のロールモデルに参加しない人間が増えると、少子高齢化がどんどん進んで、経済もシュリンクし、ついには社会コミュニティが維持できなくなるから。そういう意味で、そのロールモデルに律義に参加している「一般人」が、「護身」だの「非モテ」だのといって消費や子育てのサイクルに参加しない連中に怒る権利はあると思う。だって、彼ら彼女らが老いたとき、その生活を支えるのは「一般人」の子供や孫なのだから。
 ただ、別にそれで宇野タンの言うところの恋愛引き篭り的な「ラブゾンビ」を目の敵にして、その豊富なボキャブラリーを駆使して延々と罵倒し続けているいるのか、というとそれは違う気がする。だいたい、宇野タン自身が結婚したり子供がいたりする感じが全然しないしね。
 あえていうなら、その「ラブゾンビ」なる「現実の恋愛への憧憬を抱きながら、手に入らないから(傷つきたくないから)その存在を否定する層」を、そのコンプレックスから解放してやりたい、という高邁な理想が──あんな酷い罵倒芸で実現するとは思えんのだが。う〜ん。
 
 率直に言って、若年層の消費性向が明確にシュリンクし始めていて、それが経済統計数値にまで露骨に出始めている以上、この「恋愛離れ」の問題は一部のオタクや文化系非モテ男子だけの問題では済まなくなりつつある。本来なら、「一般人」であるべき人々まで捲き込みつつある深刻な問題として捉えるべき段階に来ているのだ。
 だから、着眼点として決して間違ってはいないんだけど、そこで「恋愛ロールモデル」についてゆけない層を、ついてゆけない原因と病理を深く考察することなく、ついてゆけない事をもって手酷くこき下ろすことが何か意味を持つのか、というのが良く判らない。
 勿論、「喪失感を受け入れた成熟」というステージは、人生の落とし所としてそこへ行かざる得ないかと自分も思わんでもないが、しかしそれはせいぜい30代以降の「大人」になって、現実の喪失をいくつか受容してから考えればいい話だ。本来、まだ何も喪っていないはずの10代や20代の若者が早々にそうした諦念を組み込んだ恋愛観、社会観を構築せねばならないとしたら、それは既にかなり病的に疲れきった社会なのではないか。それを「成熟」と簡単に片づけることには、抵抗あるな。
 無論、既にそうなってしまっている以上、それを前提にそこから希望を紡ぐ物語を構築せねばならないという考え方も判る。
 しかし、それがそうでない物語やそれを消費する者たちの負の側面をことさらに強調し、頭から否定せねばならないというのが判らない。前にもここで書いたような気がするけど、ひとつのコミュニティに所属する全員が全員、いきなり「成熟」していなければならないと考える方がおかしい。ひとりひとりの「成熟」へと至る時間軸も経路(ルート)もばらばらだし、動機付けだって違う。中には袋小路にはまりこんで最後まで辿りつけない者がいてもいい。それが多様性につながり、コミュニティ全体の強度を高める結果に繋がってゆくのではないか。
 そんな訳で、考えれば考えるほど、宇野タンのやりたいことがますます判らなくなるんだよなぁ。
 
 で、宇野タンの話はさておくとして。
 収入が激減して「恋愛資本主義」への入場料金さえ払えない男子が増えてるのに、頑として値下げを拒絶する女子の相場の読めなさとか、歴史人口学的に昔から都市部では成婚年齢が高くなりがちで「人口のアリジゴク」と化しやすいのに日本中が都市化してしまったとか、そういったさまざまな要因もあるにせよ、だ。
 結局、ことは新しい時代環境に則した恋愛(ロマンス)のスタイルが、いまだ確立されていないことにあるのだろう。
 前にも書いたけど「恋愛資本主義」だって、意味がないわけじゃない。家族や地域コミュニティに閉じ込められて可能性を封じ込められてきた女の子にとっては、「自分の幸せ(可能性)を自分で選んでいいんだ」というのは、もの凄い解放感を与えてくれる「神学」だったわけですよ。ほら、今だって珍しくないでしょ、物凄く頭良いのに都会の大学に行くの両親に反対されて、しょうがないから地元の短大出て、地元で地味なOLやら親元で家事手伝いさせられて、どうせその内、職場か親族の持ってくる見合いで結婚しちゃう選択しかない(と思い込んでる)女の子って。そうした深い絶望や憤りを抱いてきた彼女たちが、「『好きな物』を『好き』と言って良い」「(対価さえ払えば)何だって手にしていい」と欲望を全肯定する資本主義の教義(ドグマ)をいったん手にしたら、そう簡単に手放すわけがないじゃない。
 その一方で、恋愛に幻想を捨て切れない文化系男子なんて、バカ正直に「国家の大義」を信じて前線に送り込まれる新兵みたいなもので、幼少時から恋愛をタフなパワーゲームとして捉えて覚悟完了している歴戦の古参兵みたいな女子からすれば、危なっかしくて近づく気にもなれませんわな。
 そんなわけで、巷は戦場の荒っぽい洗礼にシェルショック起こして引き篭ったり、逆切れしてやたらと特攻したがる新兵男子と、「大義」もなくサヴァイブすることだけが目的化した古参兵女子ばかりとなり、愛なき荒野と成り果てたわけだ。
 ……いや、つっても、「大義(ロマンス)」もなしに鉄火場に突っ込めって言われてもですな。
 
 だからまぁ、現実の過酷さは過酷さとして冷徹に現実認知しつつ、なおそこを突破する可能性と、それを支える「大義(ロマンス)」を探さなければならない。
 現実をただ黙って受け入れればいいというわけでもなく、一方的な「大義(ロマンス)」を押し付けるのもダメ。相手が心の奥底に抱えている傷をいたわる想像力も必要だし、自分が傷ついていることにもちゃんと気づかなくちゃいけない。
 もっと自然体で、世界を受容できるスタイルを確立する必要がある。
 自分が『とらドラ!』を高く評価するのは、「成熟」とは全然反対の、泥臭くて青臭い、がむしゃらなぶつかり合いの中からそこに挑戦しようとしている印象を受けるからなのね。
 決して「あいつ等は古い」とか「ラブゾンビだ」とか罵倒することから、何かが見えてくるとは思えないんだけどねぇ。