積読日記

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高村 薫『作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)』

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

マークスの山』『レディ・ジョーカー』『新リア王』などで知られる高村薫が、2000年から今年2007年の安部首相辞任までの間に、新聞、雑誌などに寄稿したその時々の社会時評を集めたもの。
 しばらく前に買って、少しづつ読み進めています。
 本書に収録されている期間の出来事といえば、やはり小泉政権の5年間であり、同時に2001年の911以降に始まった対テロ戦の時代に尽きると思う。またこの時代は、そうした「非常事態」をお題目に、永遠に続くかと思われた一億総中流社会が見事にぶっ壊されて、この国はグローバリゼーションを受け入れる方向に大きく舵が切られていった。
 今、福田内閣でその揺り戻しとも思える現象が発生しているが、所詮、これも「揺り戻し」に過ぎず、たとえ政権が民主党に変わってもこの方向性自体はそう大きく変わらないだろう。米経済の本格的な傾きと各国政府系ファンドまで流入して加熱する国際金融市場の暴走によって、ますますもって混沌を極めてゆくであろう国際経済に対して、誰も他に有効な手立てを思いつかないからである。
 ただ、ある程度の調整フェーズを定期的に挟まないと、コミュニティが持たないというくらいの共通認識は生まれたので、何もかもが一気にぶっ壊されてゆくような小泉政権時の熱狂のようなことは、今後はそうそうないと思われるが。
 閑話休題
 さて、そうした時代状況の中にあって、本書で特に厳しく指摘されているが、小泉元総理の言説の恐ろしいまでの空疎さだ。一時は下手な独裁国家並みの国民の90%以上の支持率を獲得した、この異能の総理大臣は、基本、他人の質問には答えなかった。すべて論旨をすり替え、とぼけ、逆に問い、断定的に質問者を断罪する。民主主義社会の最高権力者としてあるまじき振る舞いと言わざる得ないのだが、それでも国民は喝采を挙げ、彼を支持した。
 自分は民主主義社会とは徹底した議論と説明により構築される社会であり、その議論を通じて鍛えられた言論空間こそがコミュニティに参加する人々の間で価値観を共有させ、危機に対してタフで強靭な社会を保障してくれると信じている。また、その信念が間違っているとは、今でも露ほども疑っていない。
 だがしかし、この異能の宰相は自らの言説の正当性と社会的信任を切り離して成立させるという、およそありえない状況を作り出してのけた。いい加減ででたらめで、しかし歯切れだけは良い言葉を繰り返せば繰り返すほど、国民は彼を熱狂的に支持したのだ。
 その魔法使いのような宰相も去り、その不肖の弟子も無様に政権の座を放り出した。
 その今となって振り返れば、彼の言説が空疎であればあるほど、国民はそのからっぽの空間に自分の夢を託すことができたのだと判る。皆、「改革」の夢に酔っていたのだ。それが同床異夢のまぼろしだと薄々気付いていたにせよ、出口の見えない「失われた10年」にあえぐ国民は、これ見よがしにともされたその明かりに酔う以外、他に選択肢はなかったとも言える。
 いずれにせよ、「改革」以外の何も約束しないまま過去最高の国民支持率に支えられた彼は、気付けば誰からも束縛されない無限の権力の持ち主となっていた。積み重ねられた憲法解釈も、自民党の支持基盤も、権益構造も、人権への配慮も、彼を縛り付けることはできなかった。彼がすべてを決めた。だからこそのドラスティックな「改革」の数々であり、調整不足のまま強行されたこれら「改革」の負の側面に、後々、国民は苦しむ羽目になってもいる。
 そうした小泉元総理の言論の空疎さを、言葉を非常に大切にする作家らしい鋭い感性で著者は厳しく指弾する。同時代の国民的熱狂の最中、民主主義社会にあって、「言葉を軽んずる最高権力者」なる存在の危うさに声を上げる人間がいてくれたことを、私達は日本人として喜ぶべきなのだろう。
 ただ同時に、個別の「点」として著者のような存在がいても、すぐに大勢に影響を与えるものではない。
 また、小泉政権が「破壊者」として一定の役割を果たしたことも事実だ。
 そうして考えたとき、私達日本人は小泉元首相の暴走を遂に押し留めることができなかったと取るべきか、はたまたその異能の才能を必要な役割を果たし終えるまで使い切ったと取るべきか……ううむ。