積読日記

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『風林火山』第50回 「決戦川中島」

風林火山 (新潮文庫)

風林火山 (新潮文庫)

 そんなわけで、1年続いた今年の大河もついに最終回。
 一年を通じて、内野聖陽山本勘助も、市川亀次郎の武田信玄もいずれも漢(おとこ)っ振りの良さが際立っていたが、最初ただの受け狙いと思われたGacktも神掛かった上杉謙信をよく演じてくれた。
 ……いや、まぁ、他のキャストはともかく、Gackt謙信以外の役ができるとも思えんけれども。
 脚本も最近の史学の成果を積極的に取り入れ、また「桶狭間の合戦」に新解釈を試みるなど、最後まで非常に挑戦的だった点も高く評価すべきだろう。
 また、限られた予算の中でスケール感のある絵創りに挑み続けた制作サイドの努力も素晴らしかった。
 いい、一年間だった。個人的には『新撰組!』以来かな。
 
 さて、番組そのものを離れて、この第4次川中島合戦について少しフォーカスを向けてみよう。
 先週、ここでも「参加将兵の死傷率は7割以上」と書いたのだけど、それほどの戦いにしては実は両軍とも致命的なダメージは受けていない。信玄の弟・信繁、重臣の諸角虎定、山本勘助等が戦死するなど中核幹部クラスに大打撃を受けているが、だからといって政権が瓦解するほどでもなかったし、上杉勢に至っては、重臣クラスの戦死者はひとりもいない。
 また上杉軍は武田別働隊が到着して挟み撃ちの危機に陥るや、速やかに戦線を離脱している。少なくともその時点で、劣勢な状勢で戦闘を継続しつつ兵を退くという、極めて高度な指揮統制機能を必要とする戦術運動を行っているくらいだから、壊滅的打撃という表現には程遠い状況であったことがうかがえる。
 まぁ、一般に近代以前の戦闘での兵員の死傷率はそれほど高くなかったともされるし、我が国の戦国百年を通じてもまれに見る激戦であったのは事実であるにせよ、クラウゼヴィッツ的な殲滅戦どころか「決戦」と呼べるほどの決着もつけられなかった戦いと言っていい。
 これより後、5年後の永禄7年(1564年)に行われた「第5次川中島合戦」では直接干戈を交えぬまま終息し、越後進出を諦めた武田勢は、そこでようやく関東に目を転じ、駿河・今川領へ進出してゆくことになる。
 武田と上杉は戦国末期の貴重な10年を無駄にした、とよく言われる所以である。
 しかし、「天下人」とは、決して「日本一強い地方領主」という意味ではない。
 「天下人」とは、その時代、その時代に合った、在るべき社会の姿をグランドデザインとして打ち出すことのできた者のことだ。
 信長、秀吉、家康にはそれがあったが、信玄や謙信にそれがあったかというと正直疑問だ。
 両雄とも「優れた地方領主」であっても、当時の日本が抱えていた多くの課題をどこまで理解できていたのだろうか。
 技術革新によって農業や工業の生産性は高まり、南蛮貿易によって活性化された東アジア経済と連結した国内経済は急成長し、貨幣経済は深化した。それらの諸条件が各大名の動員能力を劇的に増大させ、同時に銃火器の装備率も急上昇して、戦場での将兵の死傷率も跳ね上がっている。
 秀吉が戦争を土木工事にしてしまったのも、そうした社会変革と無縁ではない。銃火器主体の戦争では陣地を造らねば将兵の死傷率にとても耐えきれないし、それを可能にする資本と技術、そして動員力もある。ならばそれをより効率よく実現できるように軍組織や社会をデザインしてゆくことは、信長や秀吉のような天下人には当然の帰結だった。
 社会は大きく変わり、戦争もその様相を一変しようとしていたのである。
 だが、そこまで見通した社会設計を信玄や謙信にできたかというと……まぁ、当時の甲斐や越後の経済や社会の発展状況を考えると、ちょっと難しいよね。
 後世、武田家も滅び、天下人となった秀吉が川中島を訪れた際、両雄の戦いを「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじったという逸話が残っている。
 秀吉から見れば、戦国屈指の激戦である川中島の合戦も、新時代のグランドデザインも描けなかった田舎大名による、地方リーグの消化試合でしかなかったのであろう。
 作中で山本勘助が信玄に取らせたかった「天下」の正体とは本当は何だったのか、ちょっと考えさせられる話である。
 
 で、来年は『篤姫』で幕末ものかぁ。
 女性目線で歴史を語るのは別に悪いことじゃないんだけど、歴史考証はしっかりして欲しいよなぁ。いや、衣装考証だけの話じゃなくてさ。
 それと「薩摩人目線だから長州は無視」とかされたらたら、怒るぞ。