積読日記

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第二次惑星開発委員会『PLANETS Vol.4』


『SFマガジン』で連載中の評論『ゼロ年代の想像力』でブレイク中の気鋭の若手論客「善良な市民」こと宇野常寛を主幹とするサブカル系評論ミニコミ誌。
 先週から一部書店で取り扱いが始まっていて、自分は紀伊国屋書店新宿店5階のLife常設コーナーで昨夜、確保しました。その他の取扱店については、第二次惑星開発委員会の公式ブログにてご確認ください。
 で、今や下手な商業文芸誌に迫る部数出ているというこの評論系ミニコミ誌を、簡単に「同人」の括りで片付けてしまっていいのかとも思うのだけど、まぁ、ISBN取ってるわけでもないので一応、「同人」のタグを付けときます。
 
 さて、宇野常寛の活動については、第二次惑星開発委員会がWEBでの活動を中心としていた時代から好意的にオチしていた口なので、彼がどういうタイプのキャラなのか理解しているつもりだけど、今回の『Vol.4』の東浩紀との対談記事や巻末の中森明夫、更科修一朗を招いての鼎談の記事を読めば、大体初心者にも宇野常寛のキャラとその(現時点での)限界がほぼ把握できるという親切設計な一冊となっている。
 ……いや、まぁ、何と申しましょうか、宇野常寛自身は本気でケンカ売ってるつもりでも、中森明夫だの東浩紀やらの上の世代の連中はもうすっかり彼にメロメロ(死語)なわけなんですよ(爆)。
「若手で元気のいいサブカル論客がいる」という時点で、彼らは「この子をしっかり育てなければ」というモードに嵌ってしまっている。でなきゃ、今の宇野常寛の論旨の仕上がり具合で中森明夫がここまで肩入れしないし、あれだけ酷い言われようをされながらチャーリー(鈴木謙介)達は紀伊国屋のLifeの棚にこの本を置かせませんよ。
 その辺の「自分が上の世代の勝手な文脈(コンテクスト)でプロデュースされようとしている」ということは、賢い彼のことだから勿論、理解して乗っかってるんでしょうけど。
 いっそ誰か宇野常寛総受けでサブカル論壇BL本でも作りませんかね。
 宇野常寛に罵倒されながら、宮台真司やら中森明夫やら東浩紀やらチャーリーやらが廻りで「可愛いのぅ」「可愛いのぅ」と恍惚とした表情でにやついてる、とか。
 ……いかん、リアルに想像したらけっこうきついな、これ(むぅ)。
 
 評論家としての宇野常寛という人物は基本的に進歩主義者で、「論壇というものは常に<時代の最先端>に焦点を合わせていなければならない」という、ある種の原理主義者なのですね。そこに追いつけない、追いつく気持ちを持たない人間は「愚劣なバカ」とばっさり切り捨ててしまう。
 それは端で見ていれば痛快だし、自分に向けられればそりゃあ、むかっ腹も立とうという話なのだけど、まぁ、それはともかく。
 彼の論旨の最大の欠陥はその肝心の<時代の最先端>なるものは、誰が定義するのさ、という点が抜け落ちている点。それは時代の「シーン」をちゃんと見ていれば自明じゃないかってのは、一見、妥当なようで間違っていて、同じ時代、同じ場所を眺めていてもそれを解釈する「文脈(コンテクスト)」自体でがらりと眺めは変わってしまう。要するに量子力学における観測者と対象物の関係と通じる話で、「シーンから文脈(コンテクスト)が生まれる」のか「文脈(コンテクスト)に基づいてシーンを解釈しているだけ」なのか、よく判らない。大体、その「シーン」を設定しているのも論者の文脈(コンテクスト)に基づいた視座(パースペクティブ)なわけで……。
 言ってしまえば、「それ、お前がそう言いたいだけちゃうんかい?」という反論で話が終わってしまう。
 それに対する彼の反論としては、「自分を含めて多様な文脈(コンテクスト)が競合するようになれば、普遍的な時代の文脈(コンテクスト)が自ずと浮かび上がる」というもので、それはそうなんだけど、彼の断定するように頭ごなしにばっさばっさと否定する論調に最後まで付き合えるタフな論客は日本にはそういないと思うのね。適当なところで「まぁ、そんなに怒んなよ」と宥められて、取り合ってもらえなくなる。この本でも東浩紀中森明夫からさえ、若干、そうした扱いをされている箇所もある。だからと言って、彼らが宇野常寛に対して誠実じゃないというわけではないのだけど。
 まぁ、彼のケンカ腰のキャラは面白いと思うけど、中森明夫が心配するように、下手をするとケンカ相手すらなくして孤独に憤死なんて人生に陥りかねない。
 大塚英志のような、芸風として「ケンカ屋人生」を演じてるようなキャラになられても困るけどもね。
 
 その他の記事としては、コミティア出身の漫画家シギサヤワカや、先日芥川賞を受賞した川上美映子のインタビューなど、相変わらずエッジの効いたアンテナや視座(パースペクティブ)は結構好きですよ。
 こうした本を作る宇野常寛の視座(パースペクティブ)や文脈(コンテキスト)は非常に刺激的です。
 ただ「読者への誤配を求めて、多様なジャンルを扱っている」といっても、第二次惑星開発委員会、あるいは宇野常寛個人のアンテナや視座(パースペクティブ)や文脈(コンテキスト)の範囲内なわけで、真の意味の「誤配」ではないんだよね。まぁ、その限界は彼も判っているんだろうけど。
 
 最後にこの本の奥付で「ガルシアの首」さんが、昨年8月に交通事故で亡くなられていた事を知りました。
ガルシアの首」さんは『PLANETS』の創刊号から参加されていたライターさんで、ブログで公開されていた映画評や小説評などはよく読ませてもらっていました。
 実はこのブログに初めてコメントを付けてくれた方でもあるんですね。
 自分との接点はそれくらいなのですが、まさにこれからのライターさんだったので、本当に残念です。
 ご冥福をお祈りいたします。