積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

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本田 透『なぜケータイ小説は売れるのか (ソフトバンク新書)』

 前回のレビューは前半まで読んだ時点のものだったんですが、読了しましたのでその続き……つーか、思いつきで書いていたら何だかよく判らない方向に突っ走って行くのだが、それでもいい方は続きをどうぞ。
 
 前回のレビューで触れた当事者性の問題は、実は本書の後半でも既に言及済みだった。さすが本田 透きゅん。護身マスターは伊達じゃないぜ。
 ま、それはともかく。
 本書の後半では、「ケータイ小説を巡る言説」として、かつての漫画やアニメ、ライトノベルなどが一般に認知されるのとほとんどそっくりな軌跡で認知されようとしている状況を、そして最後の「なぜケータイ小説は売れるのか」では、著者のかねてよりの持論である物語論に即して、ケータイ小説が発生した必然性から人間がなぜ物語を必要とするのかまで踏み込んで語ってのける。
 最後の部分は著者のこれまでの評論を読んでいないとやや強引に受け取られかねない気もしたが、まぁ、新書のボリュームでやるにはちと深い領域の話だから、致し方ないっちゃ致し方ない。
 
 で、まぁ、本書で書かれていることや、かねてよりぼんやりと考えてきたことをまとめてコンテンツのロールモデルとして図示してみたのが、下の図。

 この前、『決断主義トークラジオAlive2』へのレビューで触れたロールモデルとも通じるのだけど、ポイントは本書で指摘されている「情報爆発(ビッグバン)」という概念。
 どういうことかというと、以下のような話だ。
 
 まずコンテンツ市場をその時々の流行り廃りに影響を受けやすいフロー文化(流動支持層)と、逆に影響を受けにくいストック文化(固定支持層)に大きく分けて考える。
 フロー文化では、読解力(リテラシー)の上下の臨界点で情報爆発(ビックバン)が発生すると考える。
 例えば、あるジャンルのコンテンツが発生して一定の支持を受け始める段階では大抵、あまり複雑な内容ではなく、低い読解力(リテラシー)でも理解できるような作品で、それゆえそのジャンルに興味のない大衆一般にもとっつき易い作品から普及し始める。それが徐々に作品数が増えるに従い、他の作品との差別化と消費者側の読解力(リテラシー)の向上により、より複雑で高度な作品が好まれるようになる。さらに市場への普及が進むにつれ、権威化や表現技法のルール化(固定化)が進行する。ジャンルとして確立してゆくプロセスと言い換えてもいいかもしれない。「こんなものは○○じゃない!」などと言い出す奴が増えるのがこの段階だ。
 こうしてあれこれ守らなきゃならない「お約束」が増えると、創作者も消費者も高い読解力(リテラシー)を要求されるので、どっちもそのジャンルに参入するのに高いコストを払わなければならない。そんなものに付き合えるのは固定ファン(マニア)か専門家しかいなくなるので、その内、参加者(プレイヤー)が減り、そのジャンルが市場として成立しなくなる。
 そのままそのジャンルが消滅してしまう場合もあるが、そうでない場合、既存のお約束をぶっ壊して低い読解力(リテラシー)でも成立する作品が発生してくる。単純化や他ジャンルとのミックスなど、世間一般により判りやすい、あるいは旧来の専門家やマニア層からすると冒涜的な作品が増える。
 ただし、あまりに破壊的な作品ばかりになると、ジャンルとしての同一性が維持できなくなる。また本来の対象消費者層の読解力(リテラシー)の基準より極端に低すぎる作品は「バカにするな」と逆に反発を喰らうから、限界線はやはりあり、底を打った時点で再びビックバン(情報爆発)が発生して、読解力(リテラシー)が向上する方向に舵が切られる。
 
 次にストック文化(固定支持層)について。
 上記のフロー文化のサイクルには、必ず零れ落ちる作品が存在する。流行り廃りに関係なく一定の固定ファン層を持つ作家や作品で、そこだけを相手にしているだけで経済的に成立するので、得てして表現技法はそう大きく変化しない。作家ともどもファンも時代の流れから取り残された状態で、市場の底に沈殿して生息する。だが、逆にここで保護されてきた表現技法やモチーフがフロー文化の中でブラッシュアップされてリサイクルされることもあるので、いわばそのジャンル文化のアーカイブとも取れる機能を持った領域でもある。あながち無視はできない。
 
 基本はこの構造で。ただし、フロー文化のサイクルは同じ空間だけで円環を描いているのではなく、ビックバン(情報爆発)を契機にそのジャンルの本質がずれ、消費者や創作者ごと入れ替わり、まったく別のジャンルに丸ごとシフトしてしまうこともある。その意味で、円環というよりらせん状の変化と捉えたほうがいいのかもしれない。
 
 本書の例で言うなら、元々、大衆芸能の一部として発生したはずの「文学」というジャンルがだんだん複雑さと繊細さを増し、より高度な読解力(リテラシー)を必要とする作品ばかりとなり、権威(文壇)が確立する。だが、その時点で、一般大衆が手にするには難度が高くなりすぎたため、より判りやすいライトノベルが発生する。しかし、そのライトノベルも「文学化」が進み、あまり本を読まない女子中高校生にも理解がしやすい「物語」として、ケータイ小説が発生した──と言ったような構造だ。
 これは別に文学だけでなく、SFでも、アニメでも、漫画でも、ライトノベルでも、あるいはそれらに含まれるサブジャンルでも何にでも通用する普遍的なロールモデルではないかと思う。あるいはよりミクロな視点では、個人の趣味嗜好の変遷にも適応できるだろう。
 こうした構造体が個人レベルからメディア・レベルまで相互に影響を与えながら連結して、最終的に巨大なうねりを形成し、宇野常寛のような評論家が取り上げたがるような時代の潮流が成立するのだろう。
 
 ……と、まぁ、長々とロールモデルの話を書いたが、その一方で、こんな話は作家にも読者にもあまり関係のない話のような気もしないではない。
 物語が具体的に生み出されるのも消費されるのも結局、個人の脳内でしかないのだ。自分が社会的な、あるいはジャンル的なロールモデルのどこに位置しているかを気にする作家は少なくないだろうが、それで書く内容を変える作家や読む本を変える消費者がどれほどいるか疑問だ。結局、作家は書きたいもの、書けるものしか書けないし、読者も読みたい本しか読まない。つまりは、一期一会なのだ。
 作品をいちいち「時代遅れかどうか」で評価するのは評論家だけだし、同時にそれは、その評論家が本当に読みたいのは結局、その作品ではなく、単に「時代」を読み解きたいだけなのだろう。
 となれば、まともな客でもない連中の言うことなど、作家も読者も耳を傾ける必要もないような気がするんだけどなぁ。