義忠『彼女の戰い』第1回
Scene 01
「ママぁーっ!」
泣いている。なんで泣いているんだろ、アタシ。
「ママぁーっ!」
もう泣かないってきめたのに。なんでアタシ泣いているんだろ。
「どこにいるのママーっ!」
ああそうだ。アタシはママを探していたんだ。
ママ。優しいママ。あったかいママ。
どこにいるの、ママ。
アタシをひとりにしないで。ひとりぼっちはイヤなの。
ひとりぼっちは寂しくて、悲しくて、泣きたくなるから。
泣いちゃダメ。泣くのはつらいもの。
胸がどんどん苦しくなって、圧しつぶされそうになるもの。
アタシは泣くのをこらえようと、いつも一緒にいるおサルのぬいぐるみを強く胸元に抱き締めた。
――ママはお仕事が忙しくてなかなかアスカちゃんのことをかまってあげられないけど、代わりにこのぬいぐるみサンのことをママだと思って大事にしてね……。
まだ元気だった頃、そう言ってママが買ってくれたぬいぐるみ。その子と一緒に、アタシは雪に覆われた冬枯れの森の中をとぼとぼと歩いていた。
南ドイツ。フランス国境に程近い黒い森(シュヴァルツヴァルト)の小さな村、ザンクト・ブラジーン。タマネギ型の塔(ツヴィーベルトウルム)を持つ教会で知られるこの村の外れにある、パパの職場の友人のものというコテージで夏休みを過ごすため、アタシ達一家はこの地に訪れていた。
「セカンドインパクト以来、一年中、真冬のヨーロッパで<夏休み>とはね」
ベルリンにあるウチのリビングで今度の旅行の予定を披露したとき、パパは皮肉な口調でそう呟いていたのだけれど。
パパはいつもそう。いつも何かを見下しているような、そんな冷たい言い方しかしない。
ママが入院したときもそうだった。実験中の事故が理由で病院に運ばれたと学校の授業中に聞かされたアタシが、担任の先生に連れられて駆けつけたとき、ママの病室の前でパパは白衣を着た女医と冷たい笑みを浮かべて談笑していた。ガラス窓の向こうのママの姿を眺めながら!
ママの具合はあれから少しだけだけど良くなり、やがて一時退院が許された。今度のシュヴァルツヴァルト行きは、そんなママの療養のために計画されたものだった。身体(からだ)よりも精神(こころ)を病んだママには、このシュヴァルツヴァルトの森で自然に触れるのが一番いいのだとパパは言った。
けれどコテージに着いたママは、暖炉の前に座り込んだまま動こうとはしなかった。手に持った小さな人形へアタシの名を語りかけ、楽しげに優しく微笑みながら、そこから一歩も動こうとはしなかった。
――ちがうわ、ママ! アタシはここよ! アスカはアタシなのよ!
――お願い、ママ! アタシを見て! ここにいるアタシを見て!
何度叫んでもママは振り向いてはくれなかった。どれほど必死に叫んでも、見向きもされなかった。
それなのに人形を取り上げようとしたら凄い力で振り払われた。そして激しい憎しみのこもった目でアタシを睨み、大事そうに人形を胸元に抱き締めるのだ。
そう。
まるで愛する我が子を護(まも)る母親のように……。
「ダメじゃないか、アスカ」呆然とするアタシの肩をそっと抱き、パパは言った。
「ママの病気は、興奮すると身体に障るんだ。前にもそう話したろ?」
けれど穏やかな口調でそう告げるパパの顔には、いつもの冷たい微笑が浮かんでいた。
――何で!? どうして……!?
その答はひとつでしかない。絶望的で、残酷で、だけど単純なそのひとつでしかないことを、その瞬間、アタシは悟った。
ぱぱハままヲ愛シテナンカイナイ――
アタシはコテージを飛び出した。それ以上、その現実に居たたまれなかったから。
そして、気がついたら森の冥(くら)い木立の中をさまよっていた。
「あっ!」
膝近くまでつもった雪に足を取られ、あっけなく転倒した。冷たい雪のかたまりに、頭から突っ込む。頬に触れる雪。痛いくらい冷たい。顔をあげ、立ち上がろうとする。けれどバランスを崩し、今度は背中からひっくり返ってしまう。雪とは言っても、根雪が凍結して滑りやすくなっていたのだ。
雪の上に仰向けになった格好のアタシの視界は、天まで届かんばかりに伸びる太い木々の幹と、その隙間から見えるひどく狭められた鉛色の曇空へ向けられた。薄暮へと向かいつつあるその空から、ゆっくりと小さな雪のかけらが舞い落ちてくる。
そのひとつが頬に触れたとき、ついにアタシは感情の昂(たかぶ)りをこらえきれなくなった。
アタシは泣いた。声を上げて泣いた。全身全霊をかけ、肺の中の空気をすべて吐き出しかねない勢いでアタシは泣いた。
だけど誰も助けになんかきてはくれなかった。
ただ冷たい空気を喉から肺へと流し込んだだけだった。
気管が鋭い痛みを発し、激しく咳こんだ。ひとしきりその場でのたうち廻りながら咳の発作をやりすごすと、凍える躯(からだ)と心に鞭打って立ち上がる。
援(たす)けなんかこない。ママはもうアタシのママじゃない。今ではあの人形のママになってしまった。パパはいつものように冷たく笑うだけ。死にたくなければ歩き続けるしかない。
ゆるやかな風が森を吹き渡る。雪に濡れた着衣を通して体温が奪われ、寒さが容赦なく躯(からだ)に染み込む。折れ曲がる枝の上に雪をまとう枯れた木々の群は、おとぎ話に出てくる悪魔のようで薄気味悪かった。周囲から聴こえてくる梢(こずえ)の囁きは、パパの嗤い声に聴こえた。
体力と気力が目に見えて削り取られてゆくのが自分でも判った。
やがてくるぶしまで埋まる雪に足を取られ、すぐそばの木の幹に手をついた。
――だめ。もう、歩けない……。
膝から力が抜けた。そのまま、木の根本にへたりこむ。
瞼(まぶた)がひどく重い。本能的にその誘惑の危うさに気づいてはいたけれど、あらがえなかった。
――もう、いい。もう、疲れた……。
冷えきった躯(からだ)に残るわずかなぬくもりを守ろうと、ぬいぐるみと一緒に膝を抱きかかえる。濡れそぼったぬいぐるの冷たさに、痛みすら感じた。けれど、どうしても放り出す気にはなれなかった。この子を見捨てることは、自分自身を見捨てることと同じように思えた。
やがて冷たい闇が急速に意識を呑み込んでゆく。どこかへと落下してゆくような奇妙な浮遊感。このまま楽になってしまえるなら、それはそれで悪くないように思えた。
そんな微睡(まどろみ)の中で、不意にその「声」は聞こえた。
……カ……
すぐにも消えてしまいそうな、微(かす)かな声。
気の所為? それとも、幻聴だろうか?
……ア……スカ……
――あたしの、名前……?
アタシはうすく瞼をあけた。
……アスカ……
まぶしい。肌にもぬくもりを覚えた。雲の切れ間から、陽の光でも差し込んでいるのか?
――アスカ……
間違いない、誰かがアタシを呼んでいる!
顔を挙げる。背後に人の気配。
けれどアタシは振り向くのを躊躇(ためら)った。裏切られるのが怯かった。期待はいつだって裏切りの同義語だった。そこにいて欲しいと願う人物は、いつだってそこにいてはくれないのだ!
だけど……あぁ、だけど、もし――!?
「アスカ!」
耳に届く一際確かなその声!
こらえきれなくなったアタシは、ついに振り向いた。
あふれんばかりの光を背に、柔らかなラインの大きなシルエットがアタシを迎え入れるように両手を広げている。
逆光の中で、彼女シルエツトが優しく微笑んでいることに、何故かアタシは気づいていた。
「……ママ……」
主を褒め称えよ(ハレルヤ)!
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