積読日記

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竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん (電撃文庫)』『わたしたちの田村くん〈2〉 (電撃文庫)』

わたしたちの田村くん (電撃文庫)

わたしたちの田村くん (電撃文庫)

わたしたちの田村くん〈2〉 (電撃文庫)

わたしたちの田村くん〈2〉 (電撃文庫)

わたしたちの田村くん 1 (電撃コミックス)わたしたちの田村くん 2 (電撃コミックス)わたしたちの田村くん 3 (電撃コミックス)
わたしたちの田村くん 4 (電撃コミックス)
 またどうせ長くなりそうなので、あらすじはWikipediaの方をご参照のほどを。
 ハイパーリンクって文明の利器があるんですから、有効活用しないと。
 
 このところ、かの宇野タンの提唱している概念で「レイプ・ファンタジー」なるものがあり、その響きの悪さもあって物議をかもしている──というか、まぁ、ひとわたり彼のキャラが消費されつくしているためか、「眉を顰められている」程度の扱いしかされてない気もするが、世の中にはそんな言葉がある。
 要するに男性向け美少女ゲーム萌えアニメライトノベルなどで、病気持ちだとか、精神的にアレな不思議ちゃんとか、過去のトラウマに苦しんでるとか、何らかの「弱者」としてヒロインを定義付け、主人公をその「救済者」とすることでヒロインのみならず世界から存在意義を与える(社会的承認を与える)という構造を持った物語作品、もしくはそうした読まれ方(消費構造)のことらしい。
 ヒロインの悲劇性につけこむというか、更にきつい言い方をすれば、主人公(読者)の自己承認のためにヒロインを悲劇的状況に貶めて消費しているのではないか。それは、女性を暴力的にレイプして自己承認を得ているレイプ犯同然である。そんなものに依存する男性オタクは度し難く、よしながふみでも読んで更生せよ、と。
 いきなり決め付けでそんなこと言い出すから、各方面から怒りを買うのだが、彼の場合、それこそ人が怒るのを見て(消費して)自己承認感を得ているというか、それを目的に人を怒らせている節すらあるので、アニ言ってんだこのバカという話でもある。
 ま、それはさておき。
 命名センスの酷さはともかく、悲劇を内包した恋愛物語は、一面に於いてそうした側面を持つというのも真実ではある。
 あるのだが、さて、それを言い出したら、「政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス)な恋愛って何だよ?」という話にもなってくる。
 それに男性オタク向けの物語ばかりがそうであるわけでもなし。古今東西の物語にこうした構造は散見されるし、それに男女幼長の区別もない。
 そもそも、「物語」いや「文化」とはある種の暴力性を秘めているものだ。オリエンタリズムとは西洋による東洋文化イメージの簒奪であり、西部劇はネイティブ・アメリカンの文化イメージの簒奪だし、BLはゲイ・コミュニティーに対するイメージの簒奪である。例の児童ポルノ禁止法の規制派の主張に若干の正当性を認めるとするなら、そこに性イメージの暴力的簒奪の構造があることは認めざる得ない。
 現実世界からイメージを簒奪し、創作者や読者(消費者)の趣味嗜好に沿って身勝手に組みなおし、意味を擦り換え、消費する──「物語」とはまさにその行為そのものを指すと言ってもいい。だから、そこで生じる暴力性を我々は宿業として向き合う以外にないのだ。
 それを否定することは、結局、「物語」を否定することとなり、やがて「物語」なきフラットな世界を招き寄せる結果にしかつながらないのだから。
 
 さて、ここからようやく今日の本題だ。
 この物語は、ふたりのヒロインに翻弄される男の子を主人公とした物語である。
 ひとりは主人公から好きになった不思議ちゃん系の女の子、もうひとりは何故か主人公が惚れられてしまうツンデレ系の女の子。
 結局のところ、「泣いている女の子をほっとけない」というこの年頃の少年としては至極まっとうな感性に衝き動かされて主人公は走り出し、それが物語を駆動させる。実際に、全編通して、主人公がひたすらヒロイン達の元へと走り続けている印象が強く、それが本作品の印象の爽やかさに繋がってもいる。
 しかし、それで終わらないのが竹宮ゆゆこのクオリティ。
 あるいは現代の「男の子」が直面する課題を正しくすくい上げている点は、この少年らしい感性の発露が問題の解決に直結しない──「救済者」としての立ち位置を簡単には与えてはくれない点にある。空廻りし、挫折し、ヒロインたちのメッセージを誤解し、もだえ苦しみ、失敗を重ねる。その都度、「泣いている女の子をほっとけない」というただ一点にすがって立ち上がり、再び走り出す。だがやがて目の前のそのヒロインを救うことが出来ても、それがもたらす結果を前に茫然とする羽目に陥る──ギャルゲーのハーレムエンドじゃあるまいし、ただの高校生の男の子に生身の女の子と同時にそうそう何人もガチな恋愛なんかできるはずがないのだ。倫理的にどうこう以前に、処理能力がオーバーフローを起こしてパンクするのが関の山だ。
 もうひとつ、これは『とらドラ!』でもそうなのだが、ヒロイン達をはっきりと明確に「他者」としてキャラ立てしている点に繋がっている。恋愛の甘い部分だけを与えてくれる居心地のいい存在なんかじゃない。自分が歩んできたのと同じだけの、けれどまったく「別の時間」を積み重ね、同じ言葉を発しても「別の意味」を見出し、「別の景色」を見て、「別の論理」でものを考える。「別の人生」を生きてきた「他者」だ。
 通じるはずの言葉が通じない、届くはずの想いが届かない。
 何を考えているのか判らない。何を望んでいるのか判らない。何をすれば喜ぶのか、何が彼女を苦しめているか判らない──当たり前だ。彼女達は自分とは違う、「他者」なのだ。
 
 すぐそばにいるのに、まるで「別の宇宙の住人」のような彼女達との絶望的な距離。
 それでもなお、「ほっとけない」と思うのなら──少年よ、ただ走れ、と。
 何度、転ぼうと、立ち上がって走れ。
 理屈も、理不尽さも何もかも振り切って、走れ。
「政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」なんか、知るか。
 あるいは、彼女達を無意識の内に利用しているだけなのかも。
 だが、少年にとって「目の前で泣いている女の子を守る」以上の正義などあるのか?
 そこで走り出さない少年に、何の価値があると言うのか?
 過酷な現実を突破する、ほんの微(かす)かに輝く希望とは、そんな少年のまっすぐな疾走しかないではないか。
 
 ……まぁ、そうは言っても、情熱だけで突っ走ったからってそうそうどうなるものでもないし、どうにもならない無力さを苦く心の片隅に抱え込みながら、それなりに割り切って生きる術もその内に身に着けるだろう。やがて、いろんなことに気付かない振りをして鈍感さを装う生き方も学ぶだろう。
 目の前で女が泣いていたからって、そうそうほいほい走り出せるような時間も元気もなくなってくる。ま、それなりに痛い目もみれば、ね。
 つまるところ、それが「大人になる」ということなのだが、その「少年」が「大人」へとなるそのあわいの季節に頭から試練に激突して放つ閃光の輝きこそ、「少年」がもっとも美しく輝く瞬間ではないのか。
 
とらドラ!』でもより深化した形で描かれつつあるこのモチーフは、既にデビュー作であるこの作品でも重要なテーマとして──むしろ、よりストレートに打ち出されている。
 そう。
 人が人である限り越えがたい「孤独」と、どんな善意のコミュニケーションにも孕む暴力性と、それを乗り越える奇跡のような勇気と情熱の大切さこそが、竹宮ゆゆこの真骨頂なのだ。
 
 さてさて。
 本作で提示されたこの世界観は実に魅力的ではあるのだが、残念なことにこの2冊で終了。
 しかし、そのテーマやテンションはよりパワーアップされる形で『とらドラ!』へと引き継がれてゆく。
 まぁ、いくらでも続きが書けるような終わり方でもあるし、単行本未収録の短編もあるみたいなので、『とらドラ!』アニメ化関連で何かの拍子で続きが出ないとも限らない。
 それを気長に待ちつつ、今は『とらドラ!』シリーズにどう決着がつくのかに注目させてもらいましょうか。