清水美和『「中国問題」の内幕 (ちくま新書)』
- 作者: 清水美和
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/02
- メディア: 新書
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■読売新聞:聖火リレー騒然、もみあい・小競り合いで4人けが
http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2008/news/topic/national/news/20080426-OYT1T00442.htm?from=yoltop
地元の方には迷惑だったでしょうし、小競り合いに巻き込まれた方はお気の毒でしたが、おおむねいい落とし所に落とせた結果だったかと。
「国境なき記者団」代表のメナール事務局長が各支持勢力の旗のひしめき合う街頭の様子に、「これが民主主義の姿だ」とコメントしたのが印象的でした。
中国人留学生と日本人とで口論レベルででも多少のコミュニケーションが発生していたようですし、小さな一歩かもしれないけど基本的にはいい結果です。
まぁ、だからと言ってチベットとウイグルの問題がすぐに解決するわけではないですから、オリンピック後も関心を維持してゆく必要がありますけど。
民族主義的な嫌中派の連中は本質的にチベットもウイグルもどうでもいいと思ってる点で向こうの民族主義者と大して変わらない連中なので、とりあえず措いとくとして、日本人や西欧諸国の人々がこの問題に過敏に反応せざる得ないのは、「弾圧や民族浄化を座視する」ということが「民主主義国家の市民」としての自己イメージを揺さぶるからでしょう。
まぁ、これも「幻想(ウソ)」と言えば「幻想(ウソ)」で、どんな民主主義国家だろうときれいごとだけでは済まない部分は必ずあります。例えば独裁政権時代のインドネシアに日本が援助し続けた背景に、マラッカ海峡の地政学的意義が念頭にあったのは言うまでもなく、その間、インドネシア国軍が東チモールで何をやっているかなぞマスコミも国民も、そっと目を逸らし続けていたわけです。
フランスも英米も、その意味ではまったくどの面下げてという立場なのですが、ただ国民統合の軸として「民主主義」の看板を掲げている以上、鼻先に「公然と民族浄化をやるオリンピック開催国」の存在を突きつけられれば、目先の利害関係を越えて公式には否定せざる得ない。
少なくとも、民主主義国家の一員であることに強い誇りを持っている人──自我(アイデンティティ)を「民主主義国家」像に依存している人ほど、こうした状況を座して無視できない。まぁ、そう言ってしまうと、国家のプライドが傷つけられたと事あるごとに騒ぐ民族主義の人たちと、あまり変わらなくなってしまいますが。
ともあれ、今回のこの問題は、現代の民主主義国家にとって、国家統合の軸線に関わる重大な問題としての側面を持つのです。
どうも中国の人たちはその辺が理解できなくて、古典的な覇権ゲームのコンテキストでしか状況を見えてないふしがある。
そういう側面があることも否定はしませんけどねぇ……。
一方、中国側の視点で見ると、国家統合の軸線は「統合されている」という事実そのものに大きく依存しているという国家観があるので、その「統合」の無謬性を傷つけられると激しく反応してしまうという傾向がある。
本当は漢民族が搾取や文化破壊、民族浄化なんかを止めて、チベット人やウイグル人が豊かで平和に暮らしてゆけるようになれば「独立」なんて二の次になるのに、現実には「支配の無謬性」に固執して、まるでそれを証明するために支配的経営を強化しているかのようですらある。
あの辺は希土類なんかの資源が豊かだから国家戦略的に手放したくないってのも判るけど、別に地元の人に敬意を払って、ちゃんと対価を払ってやれば済む話だろうに。
そういう国家観の根底に関わるすれ違いの部分をベースにしつつ、更にこの状況を煽って利用しようとする勢力も国内にある。確か今、あの国の宣伝部門を押さえてるのは上海グループだったはずだし、この前の反日暴動を煽ったのもこの連中だしね。人民解放軍もどちらかというとまだまだ江沢民ラインの影響が強いのと、戦前の帝国陸軍並みに夜郎自大な戦略観に陥りつつあるから、この局面で何かしでかしていたとしてもおかしくない。
上海グループは富裕層が支持基盤なので、本来なら国際協調主義でなくちゃいけないんだけど、むしろ自分達の利益に反するような民族主義的性格が前面に出てしまうのは不思議といえば不思議。
とはいえ、明治維新が「尊王攘夷」という非常にドメスティックな旗の下に始められたにも関わらず、いつの間にやら「攘夷」と真逆の「文明開化」という結論に辿りついてしまったように、政治というのは得てして表層的にはこの手の「ねじれ」を内包しつつ、結局はどっちが勝とうと国家戦略の必然性に指し示される冷徹な結論に辿りつく。
その点ではよくある話ではあるのですが、そこにたどり着くまで振り廻される方はたまったものじゃないんですけども。
ここでも何度か書いているけど、「中国人」だからどうこうという民族的な資質についてとやかく述べるつもりはまったくありません。
ただ、文明や文化の発展の段階や、国内、国際環境によって、そうならざる得ない一定の文化的傾向はある。日本人だって、米国人だって、同じ人間なんだから同じ状況に置かれれば同じ反応をするようになるだろうと思っています。
ただそれだけに、未来でも過去でもなく、「今の中国人」と付き合おうとするなら、それなりの理解と分析に基づいて対応を考えなければならないと思うのです。
これも何度も書いているけど、隣人が困った奴だからといって日本列島ごと引っ越せるわけでもなし、何とかよりよく付き合うやり方を見つけるしかないんでしょうね。