積読日記

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氷室冴子『銀の海 金の大地』全11巻

銀の海 金の大地〈2〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈3〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈4〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈5〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈6〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈7〉 (コバルト文庫) 銀の海金の大地〈8〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈9〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈10〉 (コバルト文庫) 銀の海 金の大地〈11〉 (コバルト文庫)
 氷室冴子の代表作はと訊かれれば、世間一般には『なんて素敵にジャパネスク (コバルト文庫)』だったり、『海がきこえる (徳間文庫)』だったり、あるいは『なぎさボーイ (集英社文庫―コバルト・シリーズ)』『多恵子ガール (集英社文庫―コバルト・シリーズ)』辺りだったりするのだろう。個人的には、いきなり弟に彼女を寝取られるという身も蓋もない状況からスタートする『夏のディーン 冬のナタリー』での、青春の残酷さを情け容赦なく抉るあのハードボイルドな恋愛感も大好きだったりするのだが、冒険小説読みとしてはやはり最後の長編であるこの『銀の海 金の大地』を推さなくてはならないだろう。
 いやぁ、最後の巻が出て、もう12年ですよ。それ以来、コバルトからは再版以外の本は出ていないから、「第一部完」とされたこの11巻で永遠に完結してしまったことになる。
「古代転生ファンタジー」って、結局、転生するとこまでたどり着かなかったじゃん。氷室センセのウソつき(泣)。
 
 本作品のあらすじは、簡単に説明するとざっと以下の通り。
 大和朝廷成立間もない時代の畿内地方、淡海(おうみ)の邑(むら)に育つ奴婢の娘・真秀は、母・御影の死をきっかけとして、*1その身に流れる巫王の一族・佐保族の血と中央の大豪族・和邇(わに)族の血のために、霊力を持つ兄の真澄とともに時代の動乱の中に捲きこまれてゆく──
 氷室冴子はコバルトがまだ「ジュニア小説」と呼ばれていた時代から活躍してきた作家で、当然、その本来の読者層からのニーズに応えて恋愛小説、青春小説的な作品の多い作家なのだが、よくよく読んでゆくと、どの作品も根底にひどくドライな現実認知が潜んでいることに気付かされる。
 コミカライズだけでなくドラマ化もされた『なんて素敵にジャパネスク (コバルト文庫)』なぞ、「平安朝の貴族社会を舞台におてんば姫の活躍を描く」などという通り一辺のあらすじ紹介では伝わらないのだが、事件解決のためにヒロインの瑠璃姫が高速に巡らす推理には複雑に入り組んだ貴族社会の権力構造への冷徹な批評的視座がさりげなく含まれていた。ただ、所詮、大貴族の姫君という瑠璃姫の一人称の視座からでは社会全体を包括的に描くには限界はあったし、元々、それが目的の作品でもない。
 なので、『なんて素敵にジャパネスク (コバルト文庫)』については、猪突猛進で突っ走って貴族社会を引っかき廻す瑠璃姫の痛快な活躍を楽しめればそれでいいのだが、本作の場合、ヒロインが自身を取り巻く社会や家族の重圧の中をどうサバイブしてゆくのかという辺りが主要なテーマでもあるので、ヒロインの身にのしかかる「社会」や「家族」をより重く、説得力を持って描く必要がある。
 
 本作は上記のあらすじのような基本構造の下、おそるべき速度でプロットが高速展開してゆく。*2
 だが、その背景に置かれた、大和朝廷と距離を置きたい佐保族と、その佐保族の持つ霊力に目をつけて支配下に置かんとする和邇(わに)族の抗争劇は、つい最近のチベット動乱の例を引くまでもなく、現代の地域紛争にも通づる普遍的政治命題でもある。
 そんな状況下で、善悪美醜、老若男女の区別なく、ただ死すべき者が死に、生くる者のみが生きる──それをどこまでも透徹に見つめて記録することが文学としての「ハードボイルド」であるとするなら、本作は紛れもなく「ハードボイルド」作品である。
 あげくに最終巻に収録された外伝の中編では、和邇(わに)族に雇われる非合法員(イリーガル)の哀切という、もはや「少女小説」の括りで片付けられない領域にまで突入してゆく。
 いや、もう、本当にね、大和言葉だけで書かれたハードボイルド小説なんて、本作以外に空前にして絶後なのですよ。
 本作を契機に、氷室冴子は「少女小説家」としての上っ面をかなぐり捨て、秘められた「ハードボイルド作家」としての真価を発揮してくれるものとばかり思っていたのだが……。
 
 ただこうした作品は、往々にして作家の魂と体力を削る。
 透徹な現実認知の視線を維持し続け、それを妥協なき苛烈な物語として記述し続ける行為は、最後の一行まで作家の精神力を試し続け、体力を奪い続ける。
 あるいは最終巻を書き終えた時点で、既に自身の病を意識していたのだとしたら、望んだクオリティの作品が書けるだけの万全の体力が確保できるようになるまで、療養に専念していたのかもしれない。
 最終巻のあとがきで第2部の構想を語る様子は、とても書くことに絶望した人間の文章とは思えなかった。
 その無念を想えば、もはや言葉もない。
 
 だが、彼女の数多くの作品が、ある時代の多くの少女達の日常を支え、あるいは新しい世界へと旅立ち、そこで戦い抜く勇気を与えたことは間違いない。
 それは大層な文学賞や文壇で評価されることより、遥かに作家としての誉れであったろう。
 今はただ、彼女自身と、もはや書かれることなき物語の数々の魂達を悼み、静かに祈ろう。
 旅立つその魂に平安のあらんことを、と。

*1:文庫を10年振りに引っ張り出して読み直したら、御影の死は結構、後の方だった。記憶に頼って書くとダメだなぁ。

*2:本筋は巻数の割りに大して進まなかった気もするのだが、あまりに超高速展開過ぎて読んでいる間はたぶん気付かない。