積読日記

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義忠『マルス・ライナー』プロローグ#1「端緒」

「……空間震(コーマ)航法システム、最終チェック・シークエンス開始」
 視認性を優先して照明の落とされたコックピットの中で、機長は厳かに告げた。
 長い歳月の艦隊勤務に裏打ちされた機長の静かな宣言に応え、残り六人の乗組員達(クルー)はこの機の存在意義そのものともいうべき「システム」の最終チェックに取り掛かる。
「最終チェック・シークエンス、オン」「渦状電磁流体制御システム、演算系稼働率、第一演算回路(サーキットワン)99.99999998(テン・ナイン・エイト)%、第二演算回路(サーキットツー)99.99999996(テン・ナイン・シックス)%、第三演算回路(サーキットスリー)99.99999997(テン・ナイン・セブン)%。相互審判テスト開始──テスト完了。全演算系相互検証結果、誤差許容範囲内」「機体表面温度上昇」「外殻冷却系、主系統、サブ、ともに稼働順調」「外殻震動フィードバック回路、機体全域チェック開始」「…………」
 自動化の進んだ昨今の艦船と比べれば数倍の長さに及ぶチェック項目を、乗組員達はわざわざ口頭で確認してゆく。その声にわずかの緩みもない。それどころか、誰かがひとつのチェックを終えるごとに、コックピット内の緊張が静かに水位を上げる。言葉のひとつひとつの音韻が重ねられ、いっそ宗教的な荘厳さすら帯びた呪的空間が形成されてゆく。
 それは、ここにいる乗組員全員が、これからこの機体と自分達が成し遂げる行為の成否がもたらす意義を完璧に理解している証拠でもあった。
 やがて機長以下、各乗組員のシートの手元に投影されたホログラフィックモニター上に、すべてのチェック項目があらゆるレベルで問題なくクリアされたことを示す緑色の輝きが灯る。
 生体情報(バイオメトリー)を詳細に採取するために、ちょっとした重装甲服のような大げさなサイズになってしまった特別製の宇宙服の下で、機長は小さく肯いて機関長に命じた。
「主機、点火」
「主機、点火します」
 コックピットの後方で壁に向かって座る機関長が復唱し、メインエンジンのスロットルを開放する。既に充分に暖気も終わって炉内に荒れ狂う電子の奔流を抱え込んでいた新型圧縮核融合炉に、たっぷりと推進剤をくれてやったのだ。炉から噴出する電子流は推進剤を抱きこむことで質量を得、そのまま直進して、機体最後部のノズルから文字通り爆発的な勢いで虚空へと飛び出した。
 コックピットの全員がぐいと下に身体を圧しつけられるのを感じる。巨大な質量を持つ機体が本格的な加速を開始したのだ。機体中央、推進軸線上にあるコックピットから見て、エンジン主機は「下」に配置されているため、加速による慣性力は疑似重力的な下方向の力として作用していた。
 だが、ここまでは既存の船舶と何ら変わるものではない。いずれも数千時間単位の航宙経験の持ち主である乗組員たちにとって、日常の延長でしかない。そう、ここまでは。
「第一宇宙速度突破。……間もなく第二宇宙速度──突破」
「コーマ空間震航法システム、起動」
「肯(シ)。空間震(コーマ)航法システム、起動します」
 システム専属の担当者が手元のコンソール上で素早くキィを叩き、画面を次々に切り替えると、最後にキィボード脇の赤い大きなボタンを覆うプラスティックのカバーを開けて手を添えた。
「起動完了──いつでも、いけます」
「こちらも第三宇宙速度突破まで、3、2、1……今!」
「実験宙域に入りました」
「よろしい」機長は重々しく肯いて命じた。
「空間震(コーマ)航法システム、稼働」
「空間震(コーマ)航法システム、稼働します」
 大きく復唱しながら、システム担当士官はボタンを力強く押し込んだ。
 
 ここから先、この機──亜州(アジア)同盟宇宙省の外郭機関、次世代航宙推進機関研究所所属の実験宇宙機〈銀星(インシン)〉に起こった出来事を語るには、視点を機外に移す必要がある。
 コーマ空間震航法システムの稼働開始と同時に、全長200メートルを超す機体が急速に銀色の輝きに包まれてゆく。機体表面は滑らかでほとんど突起物らしきものはない。やがてそれは巨大な銀の針と化して、粒子のきらめ煌きを後方に流しながら、徐々に速度を上げてゆく。ほどなく随伴する観測機ではその姿を捉えられなくなった。
〈銀星(インシン)〉は、そのままアステロイドベルト小惑星帯内に巧妙に設けられた回廊(コリドー)へと向かう。開口端の最大長50キロ、全長400万キロメートル──地球と月との間の距離の約10倍の距離ほども確保された回廊(コリドー)へ、天駆ける銀糸と化した〈銀星(インシン)〉は吸い込まれるように突入した。
 亜州同盟宇宙軍外惑星軌道艦隊の工作艦部隊の総力を持って形成された実験回廊(コリドー)は、慎重に浮遊岩塊などの排除がなされていたが、それでも微細な塵芥までは取り除けてはいない。通常の動力機関の艦船がこの速度で突入すれば、瞬く間に浮遊塵芥(デブリ)で穴だらけにされ、ほどなく爆散しているだろう。
 だが、この〈銀星(インシン)〉は違う。
 機体を包む銀光の外縁で、浮遊塵芥(デブリ)は強烈な電磁波の照射を受けて瞬時に燃えあがる。デブリ浮遊塵芥を組成する様々な物質を反映して、色とりどりの小さな閃光が機体にまとわりつき、これも後方へと流れ去る。
 その間も〈銀星(インシン)〉は回廊内でさらに加速。
 回廊内の各所に無数に設けられた無人観測スポットが、〈銀星(インシン)〉の姿を捉えてはリレー式に次の観測スポットへと任務を引き継いでゆく。
 データリンクでそれらの観測スポットからのデータを解析していた後方の実験母艦のオペレーション・ルームでは、技官たちが緊張の入り混じった溜息を洩らした。観測データは〈銀星(インシン)〉の機体速度が光速の10パーセントを超えたことを示している。加速開始からわずか数分。これほどの短時間でここまでの速度に達するなど、通常の動力機ではあり得ない。だが、ここまでは無人機で既に到達済みの領域だ。しかし、有人機ではいまだ前人未到の処女地──無論、機内で乗組員たちが蒸し焼きになっていなければ、だが。
 またこれだけの加速が加わると、これが通常動力船であれば船内で加わる慣性力も凄まじく、乗組員は全身の骨という骨がことごとく粉砕されていてもおかしくない。
 だが、その点については技官たちは不安を感じてはいなかった。
 何故なら、それこそがこのコーマ空間震航法システムの最大の特徴でもあったからだ。
 
 空間震(コーマ)航法システム、とは。
 機体周辺の空間特性を変性させ、時間の流れに作用して、加速効率を劇的に向上させる航法のことである。「空間の摩擦係数を減らす」という言い方もされる。通常空間では1の加速が、変性空間の中では100にも1,000にもなる。理論上は巨大なタンカーに花火に毛が生えたような推進機関を括りつけても数秒で光速に達することができる、とされている。
 その一方で、変性空間内ではあくまで1の加速を行っているのに過ぎないから、機内で掛かる慣性力は通常空間から見た見掛け上の加速ではなく変性空間内での加速に応じたものに留まる。乗組員や機器に掛かる負荷も抑えられるから、有人機や船舶の速度効率向上の切り札ともされていた。
 機体表面からわずか数十センチの空間に、爆発的な電磁波を叩きつけ、特異な変性空間を生成する──この原理が発表され、ほどなく実験室レベルで現象が確認されたのは21世紀も半ば、100年近くも前の話だ。今の五大国体制の確立に向けての「世界内戦」が最終局面を迎えようとしていた時期である。奇行の末に失踪したロシア人数学者の残したメモ上の走り書きに着目したインドの物理学者チームが、10年掛かりで基礎理論を確立し、EUと日本が粒子加速器を使って相次いで実証実験に成功した。
 ただし、そこから長らく「机上の空論」の象徴として扱われてきた理論でもある。似非科学扱いされ、まっとうな科学者なら、軽々しく口にしてはならない単語とされた時代すらある。
 それはひとえに、この理論を実際の航宙船舶レベルの大質量体に適用させるには、技術的ハードルがあまりに高すぎたためだ。
 ハードルのひとつは、この変性空間を生成するために必要なエネルギー量が莫大で、しかもそれは機体質量に呼応して増大する点にある。対質量比で当時もっともエネルギー変換効率の高かった核融合機関でさえ、まったくの力不足で、対消滅機関でもない限り実現不能とされていた。
 結局、主機関の問題は、核融合機関のエネルギー変換効率の飛躍的向上──といっても、それに100年掛かったわけだが──で補うこととなったが、越えねばならないハードルはそれだけではなかった。
 空間変性用の電磁波を発振するジェネレーターは大容量のエネルギーと熱に耐え、なおかつ長期の航行に耐えるだけの耐久性がなければならない。
 また空間の変性は機体全体でひとまとめに行えるわけではない。一度に形成可能な変性空間は数十センチ四方に過ぎず、それもわずか数ミリ秒で崩壊する。なので機体表面にびっしりとジェネレータを並べ、崩壊する先から次々と変性してゆかねばならない。しかも、加速の進行に伴って変性空間の特性が遷移的に変移する──変性空間内では時間の流れが変化するため、中から外の通常空間への働きかけも連動して精緻に制御する必要がある。
 加えて、変性空間内ではその深度(レベル)によって「あらゆる慣性力」が増幅される──つまり、深度が深くなればなるほど、宇宙の絶対座標に対して発生する慣性力、太陽系そのものの慣性力や、銀河系、銀河団レベルの慣性力まで増幅され、機体の針路を微妙に捻じ曲げる。これも機体周囲を包む変性空間の深度を調整することで、正しい進路を維持しなければならない。今回の実験回廊のような狭い空間を超高速で通過するようなケースの場合、そこで失敗すればあっという間に壁面に激突して爆散する。
 それだけにジェネレーターの出力調整は相応に高精度で行われなければならない。
 しかし、そこは膨大な電磁波が荒れ狂う暴風圏のど真ん中であり、わずかに得られる──それも盛大にノイズの入りまくったはなはだ精度の怪しい観測情報を元に、相互に干渉しつつ生成と崩壊を繰り返す変性空間へ、マイクロ・セコンド単位でリアルタイムに正確な出力の電磁波を叩きつけねばならないのだ。しかも数万のセグメントに分割された機体外殻すべてで、各セグメントの発振器ごとに個別に出力を調整して。
 極めて高度なフィードバック制御技術、予測制御技術がここでは要求されていた。
 そして勿論、機外に対して膨大な電磁波を放出しながら、逆に機内に対してはその電磁波を遮断しなくてはならない。出来なければ、機内は電子レンジ状態で乗組員は蒸し焼きになる。それも単純なシールド素材の強化でどうなるものでもなく、機内から逆位相の電磁波をぶつけて無効化するくらいでなければ、人体に影響がないレベルまでの遮断は実現できない。それには、ここでも高度な制御技術が必要となる。
 そして何より、こうした気の遠くなるような無数の技術を統合し、ひとつのシステムとして有機的に機能させるためには、既存の技術水準より遥かにハイレベルなシステム工学の成果が必要となる。
 こうした数多くのブレークスルーを達成するのに、全世界の企業、大学、研究機関が懸命に取り組んで、なお100年も掛かったということなのだ。
 それでも、テクノロジーの着実な積み重ねによって、どこの研究機関が先に実現してもおかしくない段階にまで来ていた。
 とは言え、今回、この実験を手掛ける次世代航宙推進機関研究所は、亜州同盟でも決して主流とはいえない研究機関だった。予算や人材面でも決して厚遇されているわけではない。だが、自国の他の企業、研究機関が苦手としている制御系技術をインドのデリー高等数学院との共同研究によって突破して今回の実験にこぎつけた。
 極秘に実施されているはずの今回の実験で、機密の塊である実験母艦のオペレーション・ルームに何人かの褐色の肌のインド系研究員がモニターパネルを見上げている姿が見受けられるのは、そのためである。
 しかし亜州同盟はインドとは建国以来、決して友好的とは言えない関係にある。本来、貿易や技術協力にも制約があったのだが、この研究機関は注目されていないことをむしろ利用するかのように、こうした交渉や研究開発をすべて秘密裏にやってのけたのである。
 ただし、この実験後、亜州同盟はインドとの貿易交渉や宇宙技術の提供などで大幅な譲歩を呑まされた挙句、肝心の高度制御技術の独占に失敗。この分野での他国の追随を阻止できないことが発覚し、議会やマスコミで問題視されることとなる。
 この一事をもってしても、この研究機関が決して額面どおりの「非主流」ではなく、宇宙省どころか国家の意思決定機構のかなり深いレベルからの支援が存在していたことを示唆している。そこには、亜州同盟における国内政治上、看過し得ない事情が背景があるのだが、ここではそれについては触れない。
 いずれにせよ、こうしたなりふり構わない開発姿勢が、今回の実験の実現に繋がったのだった。
 
 実験回廊(コリドー)内を突進する〈銀星(インシン)〉の相対速度が、光速の30パーセントに到達した。間もなく折り返し地点。
 機内と機外の時間の流れの差も大きくなり、観測誤差も大きくなっているはずだ。予測制御に依存する要素も強くなっている。無人機や電脳空間上のシュミレーションまで併せれば、数億の単位で無数に繰り返された領域ではあるものの、一歩間違えれば即座に大惨事へと直結することに変わりはない。
『間もなく、減速を開始します』
 オペレーション・ルームに硬質のアナウンスが流れた。〈銀星(インシン)〉機内からのデータリンクが途絶しているので、リアルタイムな状況把握ではない。事前のタイムシート通りなら、そろそろその時間だ、と言うに過ぎない。
 あの銀色の電磁波の繭(コーマ)の下では、主機の出力が絞られ、〈銀星(インシン)〉の進行方向正面に向けられた減速用ブースターが点火しているはずだ。ここでも、減速のための加速のベクトルが、機体を貫く推進軸線から上下左右ほんのわずかでもぶれれば、増幅された慣性力に翻弄され、あっという間に機体はスピン転倒し、回廊(コリドー)の壁面に激突する。この実験でも難所中の難所だ。
 誰もが固唾を呑んでオペレーション・ルーム正面のパネル・モニターを睨む中、相対速度を示すデジタル数値の増加がいったん停止し、今後は勢いよく減ってゆく──減速が開始されたのだ。
『〈銀星(インシン)〉、軌道要素に異常なし』
『減速は順調に行われています』
 加速だけでなく減速もうまくいかなければ、宇宙船の推進機関としては使い物にならない。
 だが、それも無事にうまくいった様だ。
 その後、〈銀星(インシン)〉は予定通りに減速を終え、実験回廊(コリドー)を抜けた時点で空間震(コーマ)航法システムを解除。機体を包む銀色のコーマ繭が晴れ、データリンクが回復して乗組員全員の無事が確認されると、オペレーション・ルームは割れんばかりの歓声に包まれた。
 
 実験の成果が正式に発表されるのは、三ヵ月後、乗組員の身体にまったく影響がないと確認されてから──と当初の予定ではなっていた。
 もっとも、これほど大規模な実験の実施を隠しおおせるはずもなく、日を措かず各国の軍事・情報当局、経済関係の諸機関や軍需・造船・金融等の大企業の情報部門は、ほぼ正確な状況を掴んでいたと思われる。
 ほどなくそこから水が染み出すようにマスコミにも情報が洩れ、結局、EUのネットニュースがスクープとしてすっぱ抜いたのが実験から三日後。ただし、それに合わせて上海の金融市場で宇宙関連株に不自然な値動きがあったという記録も残っているから、関係筋から意図的なリークがなされた可能性もある。
 いずれにせよ、結局、その翌日には上海の宇宙省ビルで大臣列席の公式記者会見が緊急に開かれ、大臣は「この実験により、人類は偉大なる一歩を踏み出した」とはなばなしくぶち上げた。このところ不祥事続きで支持率の低下に悩んでいた政権にとって、かっこうのポイント稼ぎの場面だったことは否めない。大臣のはしゃぎ様も無理からぬところだった。
 この日からしばらく、亜州同盟のメディアはお祭り騒ぎに突入し、機長以下、〈銀星(インシン)〉の七人の乗組員は英雄として祭り上げられた。
 この実験を契機に、彼等一人ひとりの人生はそれぞれに数奇な展開をしてゆくのだが、それを追うことは本稿の趣旨ではないのでここでは措く。
 こうした当時のメディアの動向を仔細に追ってゆくと、この件でコメントを求められた宇宙技術関連の専門家達が揃って「これで宇宙開発の歴史が五年は繰り上がった」と述べている点が目を曳く。
 このコーマ空間震航法は、専門家筋では「実現は時間の問題」とされていた技術だったが、それでももう「五年」は掛かると見られていたのだ。
 この認識は一部の技術評論家だけでなく、各国の政府機関やシンクタンク、企業などでも同じだったらしく、この時期、同様の評価に基づいて宇宙開発がらみの公文書や民間の報告書、企画書の量が一気に増大した。それに伴い、予算措置や投資計画、事業計画が慌てて見直されてゆく。
 その影響はさまざまな分野に及び、いくつもの大規模な計画が中止となり、あるいは前倒しとなり、あるいはまったく新しい計画に置き換えられた。
 
 そうした混乱の中で、分厚い情勢報告書に添付されたひとつの企画書が、亜州同盟のしか然るべき筋へひそ密やかに提出された。
 その企画書は、権限を持つ一部の関係者の間で廻し読みされ、いくつかの修正や補足が加えられた上で、ほどなく予算措置と実施の認可がなされた。
 それは、それを決定した者たちにとって日常の業務の一部でしかなかった。ほとんどの者は、事態が表面化するまでそのことをきれいに忘れ去っていた。
 いや、その時が来てさえ、彼等は何の感慨も抱かなかった。
 彼等にとって、その程度の出来事に過ぎなかったのだ。
 
 五年。
 そう、五年だ。
「たったの五年」と見るべきか、「五年も」と見るべきか。
 いずれにせよ、歴史の歯車がほんのわずか、早く廻った。
 それだけのことに過ぎない。
 たったそれだけのことで、世界の片隅で何かが小さく狂い始めた。