積読日記

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義忠『マルス・ライナー』プロローグ#2「旅立ち」

 地球と月の間にある重力の焦点――ラグランジュ・ポイントL1の宙域に、巨大な人工構築物が浮かんでいた。シュールな前衛芸術家の作品を思わせる無骨な構造材の組み合わせからなるそれは、視認性の向上と宇宙線による材質の劣化を防ぐために表面を白い特殊塗料で塗られ、各々数キロにも及ぶ、合わせて八本の長大な腕には大小さまざまな宇宙船が鈴なりに停泊していた。
 現在、木星軌道にまで広がった人類社会を支配する五大国の内で最大の勢力を誇る亜州同盟の民間軌道ステーション、〈新大連(シンターリエン)〉である。
 もっとも、民間専用港とはいいながら客船用の接岸埠頭は全体のごく一部で、ほとんどがガントリー・クレーンを備えた貨物専用埠頭のエリアで占められていた。これは今のところ、地球発の旅客航路らしきもので採算ベースに乗るのは、大規模な移民の行われた月や火星への航路ぐらいしかないためである。おまけに、この10年ほどで地球から月へは直通のシャトル便が当たり前となっており、この〈新大連(シンターリエン)〉では旅客管制部門は肩身が狭くなる一方だった。
『──先日の閣議決定を受け、空間震航法の実用化と普及に向けての研究開発を対象とした助成金制度が議会の全会一致で承認されました。また宇宙省では新航法導入に伴う未来の航路管制システムの研究開発に着手する事を発表し、そのための研究部会を発足させたことを発表しました。
 関連して、北米連合のチェスター国防大臣は、近日中に有人機での空間震航法の実用実験が行われるのでは、との記者会見上での問いにこれを否定しませんでした。実際に実験が行われれば、EUに続いて世界で三番目となります──』
 ロビーの高い天井に浮かぶホログラフィックパネル上で、女性アナウンサーが滑らかな口調でニュースを読んでいる。
 実験の成功から半年──しばらく落ち着いてきたと思っていたこの手の話題が、ここへ来てまた増えてきているような気がする。実験直後に仕込まれた政策的な動きが、芽を出し始めたということだろうか。
 指向性スピーカーの可聴ゾーンに立ってぼんやりと頭上のパネルを眺めていた五代健一は、嬌声を上げて送迎ロビーの分厚い気密ガラスに駆け寄る少女へと視線を向けた。
「あれがお兄様の乗る船なのね!」
 ぴたりと窓に張り付いた少女の背後には、巨大な〈新大連(シンターリエン)〉全体から見ればごく一角に過ぎない旅客埠頭が広がり、そこに女性的な流麗なフォルムを持つ輝くような白銀の客船が停泊している。
 火星快速便(マルス・ライナー)の異名を持つ、高速豪華客船〈天照(ティエンシャオ)〉――古い日本の神話に出てくる女神の名を冠したこの船は、全長約1,500メートルにも達し、1,000余名の乗客と100名の乗員を地球から火星までわずか二週間で運ぶ。客船としては人類社会で最速の船脚を誇る宇宙船(ふね)である。旅程のほとんどで1G加速/減速を行うために、巨大な船体の三分の二を核融合エンジンと推進剤のタンクで占める。また、エンジンの稼働率を少しでも高めるために、航行中は四枚の巨大な放熱翼を展開し、優雅なその姿は闇夜に羽ばたく白鷺の美しさにもたとえられていた。
 ついついはしゃぎたくなるのも致し方ないとはいえ、さすがに自分でもはしたないと思ったのか、ふたつに結んだ長い髪を軽く揺らしながら、少女はちょっと澄ました様子でくるりと振り返った。
「でも、酷いですわ。私たちにまで、内緒で留学を決めてしまうなんて」
 頬を膨らませて見せたのは、本当に怒っていたのか、それとも娘らしい恥じらい故か。
「ごめんな、紗希」
 五代健一は、父の友人であり、仕事の上でもパートナーでもある人物の娘で、五つも歳下の自称「婚約者」──牧野紗希の頭を優しく撫でた。
「もう! すぐに子ども扱いする!」
 たとえ一二歳であっても淑女(レディ)にはそれに相応しい扱いがあって然(しか)るべき──全身でそう主張する紗希に、健一は再び謝った。
「ごめんごめん」
「またすぐに謝る。お兄様の悪い癖ですわ。そんなので、火星でやっていけるのかしら。今から辞めても遅くはありませんのよ」
 これではどちらが年上か判らない。健一は苦笑するしかない。
「ごめんな、紗希」もう一度、健一は謝ってから告げた。
「もう決めたことだから」
「……結局、こうなったらお兄様は、梃子でも動かないんだから」
 溜息混じりに呟いてから、それでも紗希は訊ねる。
「それにしたって、何も火星じゃなくったって月でも地球でも大学なんてどこにだってありますのに。何もわざわざ、あんな物騒な惑星(ほし)に……」
「メディアの見過ぎだよ、それは」健一は幼馴染の誤解を解くべく、ゆっくりと言い聞かせるように説明する。
「マスコミは何でも大袈裟に報道するからね。火星ではコロニー単位で管理がされているから、治安が安定しているところは全然安全なんだ。僕の留学する天山(ティエンシャン)記念大学のある青鎮(チンチョン)市じゃテロなんて、一度も起きてない。心配はいらないよ」
 安心させるように微笑む健一を、紗希がむっと睨みつける。
「火星に行くのはこれからなんですもの、お兄様のその話だってメディアの受け売りでしょ」
「……いや、それはそうだけどね」
 そういえば、昔からこういう鋭いところのある娘だったかと、健一は別れの間際になって改めて思い至る。
 紗希はその直感の赴くまま、さらに一歩踏み込んできた。
「お兄様、本当は叔父様とのことがあって留学するのではなくて?」
「違うよ!」
 反射的に強く否定し、後悔した。これでは認めているようなものじゃないか。
「父さんのことは別に関係ないさ」その想いを振り払うように、健一は明るい声で言った。
「今、火星は大きく変化しようとしていて、社会学の勉強をするにはまたとない機会なんだ。そういう状況じゃなきゃ出来ない、月や地球じゃ出来ないような勉強を僕はしたいんだ。火星に行くのは、そのためさ」
 言いながら、さて、どこまでが本当だろうか、と自分でも内心、苦く唸る。
 紗希の背後で静かにたたずむ美しい豪華客船──この船の建造を手掛けているのが、健一の父、栄一を総帥とする大財閥、五代公司(ウーダイ・コンス)所有の造船所だった。
 旧日系資本の流れを汲む五代グループは、航空・宇宙関連の事業を主な業務とし、鉱山経営から兵器開発まで扱う一大コングロマリッド企業集団である。確かここ〈新大連(シンターリエン)〉の建設を請け負った建築会社も主要傘下企業のひとつだし、〈天照(ティエンシャオ)〉を運用する旅客会社の経営にも、いくらか資本参加していた筈だ。
 その大財閥の総帥である父は、ここにはいない。無論、息子として、健一は父の多忙さをよく理解していた。それに、飛び級とはいえ大学も出ている一七にもなって、父親が見送りに来なかったからといってすねるほど、子供ではない。
 ただ、遂に理解し合えなかったのだな、という苦い想いが胃の腑の奥にわだかまっていた。
 自分の後継者たらんことを求める父に、健一は反発し続けた。
 経営学ではなく社会学を学ぶ道を選び、今また火星へと留学しようとしている。その間、何度も自分の想いを理解してもらおうと努力はした──した、つもりだった。
 だが結局のところ、父が息子を自分の所有物としか見なしていないという、不毛な結論に達さざるえなかったのだ。
 そして、自分はその結論から逃げ出すために、火星へ行くのだ。
 その惨めな想いをかえり顧みれば、父の見送りなぞなくて却って助かった。
あの尊大な父に冷ややかなせせらわら嘲笑いでも浴びせられた日には、きっと死ぬまで敗北感に捉われ続けることになっただろう。
 そこまで考えて、健一は苦笑した。
 否定するにせよ、肯定するにせよ、すべての判断が父の存在が軸となってしまう。結局、自分にとって父の存在はやはり大きいのだ。
 そして同時に、今度の火星留学を決めたのは間違いではなかった、と改めて思う。今は逃げ出すためでも、いい。地球との軌道間距離、平均7,800万キロ。電話一つ掛けるにも最接近時で3分、最大22分ものタイム・ラグを生じるこの距離は、父の存在と自分自身を冷静に見詰め直すのに、ちょうどいい距離となるだろう。
 火星の大学院での二年間の博士課程の後、きっと自分は今よりも成長していると思う。何の根拠もない思い込みには違いあるまいが、何となくそんな気がするのだ。
 己自身に言い聞かせるようにそんな事を胸の裡(うち)で考える健一の顔を、紗希は下から覗き込み、
「ふうん……まぁ、いいわ」
 と興味を失ったようにあっさりと話を打ち切って言い放った。
「どうせ、アタシも次の夏休みにはそっち火星に行きますもの」
「はぁ?」一瞬、耳を疑った。
「いや、紗希、君、何を言って──」
「あら、今時、地球と火星との距離だなんて大した事ありませんわ。新しい航法なら数時間で着くってお話ですし」
「……空間震航法システムが民間に普及するのは、まだまだ先の話だよ」
 システム稼動中は外界の情報の一切から遮断されてしまう空間震航法システムを実際に使用するには、厳格な航路管制を可能とするインフラそのものからまったく新しく整備しなおす必要がある。まずは軍用艦船から、対象宙域も混雑する内惑星系航路ではなく、新規に航路帯を設定しやすい外惑星系航路からだ──という詳しい事情は、おそらく言っても通じないだろうなと思って、口にはしなかった。
「それに火星は、君みたいな女の子が夏休みの旅行なんかで来ていい場所じゃ──」
「火星は安全なのではなくて、お兄様」
「ダメだ」健一ははっきりと否定した。
「言葉遊びで扱っていい話題じゃない。ダメなものはダメだ」
 思いの外、強硬な健一の態度に紗希はわずかにたじろいだものの、即座に突破口を見つけたらしい。急に表情を輝かせて反撃に転じた。
「なら、お兄様の方が帰ってらして!」
「えぇっ?」
「そうよ。夏休みには地球に帰ってくること」
「あ、う、うん」
 勢い込んで迫る紗希に、とっさに頷いてしまう。
「それと浮気もしないこと」
「うん……って、いや、紗希、浮気って、君ね──」
「約束よ、お兄様。どっちも破ったら、私の方から火星に押しかけますわよ!」
「……判ったよ……」
「浮気」の方はともかくとして、夏休みの地球帰郷の約束は破るわけにはいかないな、と観念して頷く。破ったら本当に火星まで押しかけてきかねない。
 こういった時は適当に受け流すに限る──といつもの処世術でやり過ごそうとしたそこへ、
「健一(ジァンイー)ぼっちゃん」
 と、きつい福健訛の残る北京語で呼びかけられた。
 振り向けば見上げるほどの身長と壁のように広い肩幅を持つ、隆々たる体駆の大男が立っていた。髪を軍隊風に短く刈揃え、岩石の塊を思わせる無骨な容貌の右の額には明らかに銃創と思われる醜い傷跡が残っている。形ばかりは健一に合わせてスーツを着込んではいるものの、どう見ても場違いな印象しかない。
 父が火星留学を認める見返りに健一に付けた、ボディガードの陳瑞林(チェン・ルイリン)である。宇宙軍火星軌道艦隊に所属する特殊部隊、低重力下戦闘挺団の元隊員で、火星では地元自治体の警察力を補う形で対テロ活動にも従事していたという。
 だが、VIPのボディガードを務めるには些(いささ)か粗暴な男で、機嫌がいいと火星時代の自慢話を始めるという悪癖があった。それらのほとんどは武勇伝と称するには荒々しすぎるものが多く、眉を潜める健一の反応を悦(よろこ)んでいるようなところもある。
 陳(チェン)は人を小馬鹿にしたようなにやついた顔で言った。
「そろそろ搭乗手続きの時間なんですがね」
「判っています。先にゲートで待っていてください」
 嫌悪の感情を隠しもせずに告げる健一に、陳(チェン)は皮肉な表情で軽く肩をすくめて身をひるが翻えすと、床を小さく蹴って搭乗ゲートへと流れてゆく。さすがに低重力下戦闘挺団の元隊員だけあって、無重力下での身のこなしは手慣れたものだった。
「アタシ、あの人、嫌い……」
 いつの間にか健一の背後に廻ったのか、紗希が健一の腕をぎゅっと掴んで陳(チェン)の背中を伺うようにして言った。
 その仕草に、健一は困ったような表情で苦笑するにとどめた。
 その顔を覗き込むようにして見ながら、紗希は続けた。
「お兄様、誰にでも優しいのもよろしいのですけど、嫌なものは嫌だと、はっきりと口にすべきですわ」
「今でも充分はっきりと口にしているつもりだけど……」
「いいえ、紗希に言わせればまだまだです。本当なら火星なんかに行く前に、いっそ叔父様と掴み合いの喧嘩のひとつでもしてゆけばいいのに」
 とんでもない発言をさらりと言ってのける紗希の顔を、しばらく開いた口の塞がらぬ思いで眺めた後、健一は吹き出した。
「ほんと、そうだ。紗希の言う通りだね」
 さすがに物心ついたころから五代家に出入りしてきただけあって、何でもお見通しということか。
 だが、それができないから、自分はわざわざ火星くんだりまで逃げ出すのだ。
 そんな自嘲めいた感慨にかす微かな笑みを浮かべながら、健一は言った。
「紗希、もう行くよ」
「……さっきの約束、絶対よ、お兄様」
「ああ、きっとだ。約束するよ」
 袖を掴む紗希の手を取った。
 上目遣いに今にも泣きそうな表情の少女の瞳を見てしまうと、こちらもどうにも参ったが、それでもそんな気持ちを振り切るようそっと紗希の手を放す。
 ただ、気丈に振る舞いながらも、この娘はこの娘なりに必死に頑張ってここに立っているのだということは、忘れないようにしなくてはと健一は思った。
「じゃあ、行くよ」そう小さく告げ、健一は床を蹴った。
「あ、お兄様、向こうに着いたらお手紙くださいね! アタシも必ず書きますわ!」
「うん、必ず出すよ!」
 ぶんぶんと手がちぎれんばかりに振る紗希に笑って手を振りながら、搭乗ゲートへとその身を向ける。
 必ずしも得意ではない無重力下を、どうにかみっともなくならないように苦労しながら目的地まで辿り着くと、例の薄笑いの浮かんだ表情で陳(チェン)が待っていた。
「可愛い婚約者(フィアンセ)殿との、お別れは済ませましたか?」
「彼女は別にそんなんじゃありませんよ。妙な勘繰りはやめてください」
 とそっけなく答えて手続き待ちの搭乗者の列に並ぶ。確かに健一にとって小さい頃から知っている紗希は「妹」のようなもので、恋愛の対象とは見ていない。もっとも、勉強尽くしで、この歳までろくな恋愛経験もない健一に、偉そうに「恋愛」の何たるかを語れるわけでもなかったが。その背後に付きながら、陳(チェン)は続けた。
「向うはそう思ってないんじゃありませんか。小娘でも女は女ですよ」
「陳(チェン)さん」健一は振り向き、睨みつけた。
「あなたのボディガードとしての資質について、とやかく言うつもりもありませんし、それができる見識も僕は持ち合わせていません。ですが、護衛の対象者に不快感を与える分まで、父が払う契約金に含まれているとは思えませんが、違いますか?」
 その言葉に、一瞬、面喰らったような表情を浮かべた後、陳(チェン)は軽く頭を下げた。
「それはまた失礼しました。しかしさすがは大学を出られた学士さんですな。 おっしゃ仰ることがいちいちもっともだ」
 言外に侮蔑的なニュアンスを滲ませたふざけた口調で、陳(チェン)は答える。それに何か言い返そうとして、
「悪いんだけど、先詰めてもらえる?」
 と陳(チェン)の後ろから健一に告げる女の声がした。大人びた落ちつきと、断定的な硬さを含んだ声だった。
「あ、すみません」
 とっさに謝って、いつの間にか二〜三人分ほど開いていた列を前に進む。
 陳(チェン)もそれ以上何も言わず、互いに無言のままゲートまできた健一は、紺色の制服を着た港湾職員に身分証明証を提示し、ノート代わりのパソコンと文庫本一冊の入った薄目のブリーフ・ケースを渡した。身分証明書に記録された情報と健一自身の生体情報(バイオメトリー)、公安当局で管理されている個人認証情報、旅客会社のチケットサーバの情報が相互参照され、予約が確認される。着替えの衣類その他の入ったスーツ・ケースは別のゲートから既に船内に運ばれており、出港前に受け取ることになっている。引っ越しの荷物については、別の貨物便で一週間も前に発送済みだ。
 慣れた手付きで職員がチェックを済ませ、金属/爆発物探知機を兼ねたゲートをくぐる。
 次いで、検査を済ませたブリーフ・ケースを手に、ゲート前のフロアで陳(チェン)が手続きを済ますのを待っていると、その後ろに立つショート・カットの少女の姿に目が留まった。年の頃は健一と同じぐらい。ほっそりとした小柄な躯に白いワンピースを纏い、背筋をすっと伸ばして立っている。まるで自分には世界のすべてを断罪する権利があるとでも言うような、高慢で、だがそれ故に気高いまでの凛々しさを感じさせる少女だった。
 さっき自分に声を掛けたのはたぶん彼女ではないかと、健一は何となく思った。
 その視線に気付いたのか、港湾職員に身分証明証を提示していた少女がふと健一の方に視線を流し、小さく微笑(わら)う。
 だがそれは、何か引っかかる微笑だった。
 いい歳して「ぼっちゃん」呼ばわりされる自分への嘲笑。それは判るのだが、それだけでは割り切れない、どこ何処か言い知れぬ寂しさを含んだ不思議な翳(かげ)のようなものがそこに差していた。
 何故か目を逸(そ)らすことができずにぼんやりとその表情を見詰め続けていると、港湾職員から何か訊ねられたのか、少女が顔をそちらに向ける。
 それを追うように無意識の内に足を踏み出しかけたそこへ、
「ぼっちゃん」
 と陳(チェン)が健一の視界を塞ぐように眼前に立ちはだかった。
「手続き、終わりましたぜ。行きましょう」
「え? あぁ、そうだね……」
 とっさに受け答えして、乗船用の通路へ向かう陳(チェン)の後を追う。
 途中、振り向いてさっきの少女の姿を確かめようかと思ったが、やめた。どうせ彼女も同じ船に乗るのだ――そこまで考えて、眉根を寄せた。
 船内で会って、どうしようというのだ。
 これから火星に出発しようっていうこんな時に、それも女の子のことなんて……。
 ドラマに出てくる軽薄な二枚目俳優よろしく彼女に話しかける自分の姿を思い浮かべ、健一はちょっとした自己嫌悪に陥っていた。
 
 健一達が乗船してから30分後――
 乗船用通路、貨物搬入架橋、電力や通信用のケーブル、水や酸素、推進剤等の供給用パイプ類などが取り外され、〈天照(ティエンシャオ)〉は四枚の放熱翼をゆっくりと開き始めた。大気のない宇宙空間では大きさが掴みにくいが、それぞれが1キロ近くもある。地上で生活している分には頭がおかしくなりそうなスケールだが、惑星間航路を飛ぶ宇宙船(ふね)としてはさほどの大きさではない。
 展開率30パーセントほどで放熱翼の展開が一旦留まる。次いで埠頭の基底部に設置されたレーザー投射器が離岸用推進レーザーの発振を開始。それを放熱翼の裏面に貼られたコンピュータ制御の受光ミラーで反射し、推進軸線上後方へ集束する。〈天照(ティエンシャオ)〉の白銀の船体は、太陽の女神の名にふさわしい典雅な足取りでしずしずと前進を始めた。
 悲喜こもごもの声とともにそれを送迎ロビーから眺める見送り客の中に、一人の男の姿が混じっていた。
 マレー系の灼けた肌と、柔らかみのある造形の童顔めいた顔立ちをしており、鼻の下には薄く髭を生やした三〇代後半の伊達男である。月製の洒落たスーツのポケットに両手を突っ込み、世界の半分は気の利いた冗談でできており、残り半分はたち質の悪い冗談でできていると心得ているような、そんな皮肉な表情で立っている。
 一見して、どうということもなさそうな姿勢だが、実はそうでもない。無重力下の空間で床に足を付けて立ったままの姿勢を維持するには、少なからぬ「慣れ」が必要である。
 ましてやこの送迎ロビーの場合、単純な無重力環境ではなかった。太陽からの輻射熱の偏りを避けるために、〈新大連(シンターリエン)〉は非常にゆっくりとではあるが自転しており、それによって微妙な慣性偏移(コリオリ)の力が働いている。そのため、ちょっとでも気を抜くと、すぐに自転軸から外側に向けて流されてしまうのだ。
 そういう環境下で、地上と同じようにごく自然に立っているこの男のバランス感覚は、宇宙空間での生活経験の長さを物語っていた。
 文字通り音もなく埠頭から滑り出てゆく〈天照(ティエンシャオ)〉の姿を眺めていた男は、不意に小さく呟いた。
「〈天照(アマテラス)〉ね……。いまさら御家再興でもあるまいに。アナクロなネーミング・センスだな……」男は失笑するかのように口元を歪め、背を向けた。
「ま、祝你一路平安(ヴォン・ヴォヤージュ)」
 
〈天照(ティエンシャオ)〉が完全に離岸を果たした段階で、埠頭基底部の推進レーザーは発振を終熄。展開を再開した〈天照(ティエンシャオ)〉の放熱翼が全開となるのを待って、今度は〈新大連(シンターリエン)〉の一角に据えられた大型のレーザー投射器が推進レーザーを発振する。
 風を捉えて大海原へと乗り出す帆船のように、火星快速便(マルス・ライナー)〈天照(ティエンシャオ)〉は火星へと向かう一次加速を開始した。
 
 こうして、物語が始まる。


                                   <……to be Continued Next Issue!>