積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

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お叱りに応えて

 ここまでのあらすじ。
 知り合いの運営する某所スレにて、先ごろ死刑が確定した光市親子殺人事件について話題が上がり、それに対して私が「この事件が橋下氏の今に繋がる一因になった」的な内容のコメントを書き、それに対してこれまた顔見知りの別の知り合いから「『あんな凶悪犯罪があったから橋下市長が誕生した』などという言草は何事か! 大阪市民に失礼だ!」的なお叱りが入った。
 これに対して、「それがすべてじゃないにせよ、橋下氏の今に至る転換点のひとつなんだから、しょうがないじゃん」的なコメントと、ここから先はスレ主に迷惑なので自分のブログで引き取る旨を書き込んだ。
 で、丸一日放置した。
 いや、だって、あのまま感情的なコメントのラリー交わしても、ろくなことがない程度にはネット経験は積んでますので。
 そんなわけで、私はこれをここで書いてる。
 ちなみに、ここまでに大阪の人間はひとりも出てきていない。
 
 以上、あらすじ終わり。
 
 さて、一晩置いて頭を冷やし、つらつら考えてみたのだが、はて、私は間違ったことを言ったのだろうか。依然、腑に落ちていない。
 勿論、今の大阪市政がかの事件のみを起点に始まってるなどと言ったつもりはない。
 ただ、かの事件に関連して、加害者側弁護士の懲戒解雇要請を弁護士会に出すようTVで視聴者を煽ったのは彼だし、本人も別に隠し立てしているような過去ではない。この件に関しての橋下氏の言動を私は快く思っていないが、「庶民感情を的確に拾って、よくぞ言ってくれた」という評価があってもおかしくない。好悪善悪どのような解釈があってもよいが、重要なのは今日の橋下氏の言動に見られる「メディアとの関係性」「アジテーションの上手さ」「既成秩序に対する破壊的な性向」といった主な構成要件がここでほぼ出揃っているという点だ。
 この事件をすべて計算ずくで引き起こしたわけではあるまいが、少なくともこの事件を経て彼は「メディアの効用」について深く学習して、以後の行動に活かしている。
 だとしたら、「(光市の事件が)橋下氏の今に繋がる一因になった」という私の主張はあながち間違ってはいないはずだ。
 
 だが、橋下氏に投票した大阪の人々が、あの時の橋下氏の言動を基準に投票したわけでは勿論あるまい。多くの人々が橋下氏が善き大阪へ導いてくれると信じて投票したのだろう。その至誠を疑うものではない。まぁ、選挙中に「おばあちゃんの足の市バスは守ります」と公約しておいて、さっそく市バスの民営化と不採算路線の見直しに取り掛かって辺りなんかどうなんだと思わんでもないが、結局のところ、その評価は大阪市民自身が下すべき話ではある。
 その至誠を凶悪犯罪と結びつけて汚すとは、何たる侮辱であろうか──
 しかし、有権者が希望や善意に基づいてそれぞれの支持する政治家に投票するのは、(建前上)投票行動として正しいものの、別に大阪市民だけの特権ではない。この理屈では、選挙に通った選良たる政治家には批判やネガティブな評価は行ってはいけないことになる。
 そんなはずがあるか。
 少なくとも、橋下氏とその一党は国政への進出を宣言しているのだから、大阪市民以外の国民にも彼のこれまでの言動を(勿論、事実に基づいて)振り返り、評価し、それを公にする権利を有するはずだ。
 であれば、そこも間違ってはいないはずだ。
 
 私自身は自分の政治的傾向を保守リベラルと任じている。
 社会的弱者や時間を掛けて形成された文化事業を平然と軽視する橋下氏の言動を快くは思ってないし、個人の内面に無造作に踏み込んで良しとする考えには同意できない。
 非常に浅い経済観に基づいて繰り出される、思慮の足りない経済政策群には危惧を覚える。特に件の「船中八策」で、震災復興とそれを日本自身の再興にどう繋げるべきかという観点が、きれいに抜け落ちていることには失望した。これでは話にならない。
 それでも大阪ローカルで地道に地方自治の改革に勤しむ分には、東京からはどうでもいいといえばどうでも良かったのだが、これが一気に国政にまで関与するとなればそうも言ってられない。
 橋下氏とその一党が何を為そうとし、それも見合った資質があるのか、国民として真摯に見極めなくてはいけない時期がきているように思われる。
 
 ただし。
 ただし、である。
 橋下氏本人とその一党の資質の評価と、彼らの存在自体が歴史の中で何を意味するのか、はまた別である。
 どんなボンクラ集団でも、ある時ある場所にただ存在することによって、歴史上、重要な役割を担ってしまうことはよくある。それが歴史の善き流れに繋がってゆくのか、それとも悪しき流れに繋がってゆくのかは、往々にして同時代人には読みづらい。
 したがって、橋下氏とあの3,000人の愉快な仲間たちの「存在の意義」を、私は軽々に断じてはならないとも思っている。
 
 いずれにせよ、歴史や政治の分析や議論を行うに当たって、各プレイヤーに対して「失礼」とか「心情を慮って」表現を躊躇うことは、あまりよろしいことではない、と私は思う。
 勿論、政治や外交の「現場」では、逆に慎重の上にも慎重であるべきだが、それとこれとは別である。
 
 そんなわけで。
 せっかくお叱りをいただいたご本人には大変心苦しいのだが、今度の一件で、自分が間違った発言をしたかどうかについて、私自身としてはかように依然腑に落ちていない。
 まぁ、己一代の人生を振り返れば、恥多き間違いばかり人生であったことは認めるにやぶさかではないのだけれど。