積読日記

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監督:劉偉強(アンドリュー・ラウ)、麥兆輝(アラン・マック)『インファナル・アフェアIII 終極無間 [DVD]』

インファナル・アフェア [DVD]

インファナル・アフェア [DVD]

 物語はシリーズ第1作『インファナル・アフェア』のラストシーンから10ヵ月後の2003年と半年前の2002年の双方から同時にスタートする。
 2002年、サム(エリック・ツァン)の組織に迎え入れられた潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)は、未だボスであるサムの信用を得られずにいる。
 2003年、ヤンの死後、警察に潜入したマフィアであったラウ(アンディ・ラウ)は、査問期間中に回されていた閑職から内務調査部に復帰し、最初の仕事として保安部のエリート警察官ヨン(レオン・ライ)の調査を開始する。マフィアとの直接接触の機会が多いヨンには、内通の疑惑が掛けられていたのだ。任務としてだけでなく、マフィアとの関わりを断ち切って「善人になりたい」と切望するラウは、ヨンの正体を暴き、必要とあらば密かに抹殺する決意を固める。
 2002年、大陸の組織との折衝役を任されたヤンだったが、サムの不可解な命令に振り回される。
 2003年、ヨンの調査を進めるラウは、やがて残された記録から、同じくヤンがヨンの正体を疑ってマークしていたことを知る。ヤンの掛かりつけの精神科医との接触し、診療記録を盗み出すラウ。ヨンを尾行し、盗聴し、保安部に侵入して盗撮すら始めるラウ。調査の進行とともにラウの意識はヤンと一体化し、違法な捜査へとのめり込んでゆく。……。
 
 「ハードボイルド」とは、第1次大戦後、アメリカの大衆文学、推理小説の中から生起した文学形態とされる。その初期の代表的な作家であるダーシル・ハメットがかの有名なピンカートン探偵社の探偵(オプ)であり、労働争議を排除する仕事に従事していたという話からも類推されるように、暴力や欲望の渦巻く過酷な世界観を背景とした物語、もしくはそうした世界の中での登場人物の生き方のスタイルを示すものである。船戸与一流に言えば、資本主義の発展過程において、資本の暴走に法の制御が追いつかないとき、ハードボイルド的な世界観は必ず現出する。そこに人生を踏みにじられる人々が必ず存在するからだ。
 船戸与一豊浦志朗)のハードボイルド感についてはこちら(『叛アメリカ史―隔離区からの風の証言 (ちくま文庫)』)を読んでいただくとして、文学の役割のひとつが世界をどのように受け留めるかの視点の提供にあるとするなら、ハードボイルドは紛れもなく資本主義社会下にあって日々の生活や価値観の破壊に喘ぐ大衆が求めた視点のひとつに他ならない。死すべきものは死に、生くるべきものが生くる。価値観の相違は裏切りを呼び、それはどれほど親しい者の間でも容赦なく発生する。そこに善悪の観念の入る余地はない──それを直視し、直視した上での生き様を示すものが「ハードボイルド」である。
 その意味で、実は「銃」や「殺人」はハードボイルドの必須的なテーマではない。筆者などは氷室冴子も立派なハードボイルド作家と捉えているが、それは『冬のディーン夏のナタリー〈1〉 (集英社文庫―コバルトシリーズ)』のように恋愛の残酷さ、実も蓋もなさからスタートするような作品を躊躇うことなく描いてのけるからである。*1
 論点を戻そう。
 このようにしてハードボイルドは、近代市民社会における普遍的な文学概念として米国一国のみならず全世界に普及した。それはアメリカ的価値観(アメリカン・ウェイ)が世界をあまねく包んでゆく過程と完全に軌を一にしている。上記でも触れたように、ハードボイルドが資本主義社会の暗黒面と表裏一体の存在である以上、それは必然的な現象であった。
 しかし、資本主義社会の進化と深化により、「ハードボイルド」という概念だけでひと括りには出来なくなってきた。具体的には「路地裏の騎士」の存在を認めるべきか否か、という問題だった。過酷な現実を直視した作品世界を設定するにしても、主人公は高潔な倫理観を持つ(あるいはなけなしの正義感を振り絞って)悪と対決する存在とすべきか否か。
 「否」という道を選んだ者たちの前に、そこに「ノワール(暗黒小説)」という新たな地平が広がっていたのである。
 
 しかしなぜ「否」なのか? 「悪は滅び善は栄える」という古くからのエンターテイメントの物語構造ではダメなのか?
 それは自意識の問題である。ノワールの書き手や読者は、己の姿を「タフで正義感にあふれる探偵」に素直に投影することが出来ない。何故なら、高度に発達した資本主義社会の市民として、自らも何らかの加害者として存在していることを知っているから──いや違う。そうではない。彼らは、そして私たちは、「何が正しくて何が間違っているのか」──善悪の区別を容易に付けられなくなってしまっている自分を知っているのだ。
 試みに問おう。
 先日、このブログで病院関係者に金を握らせて、腕の立つ医師に優先的に手術をさせた某コンサル氏の話をした。彼の行為は善か悪か。マナーとしてよろしくはないが、掛かっているのは自分の生命だ、致し方ない。しかし、そのために本来受けられるべき手術を受けられない患者がいたかもしれない。その人の生命の価値はどうなる? 生命は平等であるべきではないのか? 自分の生命であるならそれでもいい。しかし、愛する者の生命が掛かっているとすればどうだ? あなたの恋人の、伴侶の、子供の、両親の、友人の、決して喪って欲しくない愛すべき人々の生命が掛かっていたとしたら? 僅かばかりの金を惜しみ、些細な正義感を満たすために拒否すべきなのか? 拒否することこそ、「悪」ではないのか? ……。
 端的に言って、答えなどない。当事者にとってみれば、状況があり、葛藤があり、やがて望むと望まざるとによらず下した結論が、結果として己の人生に厳然と存在してゆく。それだけだ。これほどまでに多様化してしまった、高度資本主義社会下の価値観にあっては、己の下した結論を無邪気に全肯定して救ってくれる「正義」など存在しない。あってもそれはまやかしに過ぎないことを、私たちは知っている。「まやかし」は言い過ぎにしても、価値観が音を立てて変化し、まるで変化することそのものが目的かのようなこの世界にあっては、「正義」の賞味期限はおそろしく短いのだ。そんなものをうかつに信用すると、酷い目に遭う。
 しかしそれは、実は個人の人格にとって恐るべき状況をもたらしている。ヒトの人格とは、結局、「やっていいこと/悪いこと」の類例集で積み上げられているようなものなのだが、その尽(ことごと)くが不安定で、不確定なものだとしたらどうなるか。その個人の人格の境界もまた、曖昧になってしまう。では状況によって変わる「正義」に、その場その場でスウィッチを切り替えるように適切な人格へと切り替えてしまうべきなのか? しかし、それには、どれだけの「人格」が必要になるのか? そしてその時、「人格」を切り替えてコントロールしているはずの「本当の私」と、個々の「人格」と、どちらが「主体」なのか? ……。
 境界例。多重人格。自己同一性障害──臨床心理学のさまざまな用語で規定されるこれらの障害の要因は、高度資本主義社会下に生きるすべての市民の心の奥深くに根ざしていると理解すべきだろう。
 そうした己の心の闇を自覚してしまった人々にとって、穢れなき高潔な騎士の活躍だけでは、決して傷ついた心のすべてを癒すことはできない。暗く、冷たく、饐えた腐臭を放つあの暗闇の底へ、ともに手を携えて堕ちてゆく伴侶を必要としているのだ。
 それが「ノワール(暗黒小説)」なのである。
 
 ここでもう一度整理しよう。
 「ハードボイルド」とは、過酷な現実社会を直視する文学である。そして「ノワール」とは、そこから更に踏み込んだ「価値観の揺らぎ/善悪の境界線の喪失」をテーマとした文学である。
 無論、これ以外にも人それぞれのハードボイルド論、ノワール論があって然るべきだが、本稿ではそのような定義で以下の論を進めたい。
 
 ここでようやく『インファナル・アフェアIII』(以下『III』)のレビューに入ろう。
 実は『インファナル・アフェア』(以下『I』)を観終わった時、その物語としての魅力と完成度に打ちのめされながらも、「ノワールとしては甘い」という感想を抱いていた。それはひとり生き延びたラウが警察組織の中に残り、「善人になりたい」という望みを叶えられたかのようにも取れるラストだったからだ。バカを言うな。これだけ業の深い物語の中で、ひとりお前だけがそんな虫の良い結末を迎えられるわけがないではないか──まさしくその通りだった。
 『インファナル・アフェアII』(以下『II』)ですべての発端となった過去を描いた後に迎えるこの『III』では、「善人になりたい」と必死に乞い願いながら破滅への道を転落してゆくラウの姿が描かれる。
 しかもただ破滅してゆくだけではない。クライマックスとなるヨンの拘束のために保安部に踏み込んだラウは、極限の緊張と疲労から自分をヤンだと思い込んでいた。ヤンとして、警察上層部に巣食う潜入マフィア・ラウを逮捕しにきたつもりだった。彼はそれほどまでに「善人」に──10年もの潜入捜査を経てなお警官たる自分を見喪わなかったヤンになりたかったのだ。
 だが、そこでラウがヤンになれなかった決定的な違いを、観客は見せつけられる。彼はどうあがいても「善人」にはなれなかった、ヤンにはなれなかった。そうなろうとあがくその姿そのものが、彼が「善人」とはなれない証(あかし)を刻み続けていた。
 それが明示された瞬間、観客はこの『インファナル・アフェア』と称する物語の構造自体が一気にひっくり返されたことを知る。ラウとヤン──警察に潜入したマフィアとマフィアに潜入した警官。シンメトリカルなこの構図の中で、ヤンの退場後、ラウがヤンの魂と一体化しようとするのは当然のことのように観客は観ていたはずだ。だが、この瞬間、「ヤンの物語」において真実シンメトリカルな関係だったのはヨンの方であり、ラウは所詮、ただの影でしかなかったことがぶちまけられる。
 何という残酷さか。
 命懸けの捜査現場でヤンとヨン、そして大陸側の潜入捜査官の3人に友情が芽生える場面がヤンとヨンの墓前での回想として描かれたとき、その友情の美しさにではなく、決してそこに入ることの出来ないラウの姿に、胸の締め付けられるような想いを抱いた。それはどんなに憧れようとも、ラウには決して手の届かぬ幻だったのだ。
 しかし、その憧れは罪だったのか? 明日には自分が生まれ変わっていると願うことが、それほどの罪であったのか?
 
 この物語が真実優れたノワールであったことを確信するのは、この瞬間だ。
 ノワールとは、「価値観の揺ら」ぐ世界を描く表現手法である。善悪の境界線がぼやけ、何が正しく、何が間違っているのかも判らない、そうした世界で生きてゆかざる得ない、そんな人々を描く文学である。
「善人になりたい」と喘ぐようにヨンを追うラウの惨めで、哀れで、悲しいまでにその姿は、紛れもなく高度資本主義社会に翻弄される私たち自身の映し絵だ。
 この『インファナル・アフェア』のように、ノワール作品のほとんどで主人公は破滅するか、闇の中に心を閉ざす。それが嫌だという人がいるのも知っている。何も好きこのんで、絶望的なオチの話を観たくないという気持ちはとてもよく理解できる。
 しかし、ノワールとは読者や観客の苦しみにそっと寄り添い、ともに悪夢の底まで道行きをしてくれる文学である。そして主人公達の破滅は、現実社会で破滅することも許されず、この苦界をどこまでも生き抜かねばならない私たちの身代わりに罪科を負うてくれる代償行為なのだ。その意味で、これほどの深い慈愛に満ちた文学表現を、筆者は他に知らない。
 この物語もまたそうだ。
 破滅するラウ。望むものを決して手にすることが出来ないと知ってしまったラウ。絶望に心が粉々に砕けてしまったラウ。
 その悲劇が徹底されればされるほど、同じような苦しみを知る者、日々の生活の中で無自覚の内に深い心の傷を負ってしまった者にとって、これほど愛を感じる瞬間はないだろう。
 この愛を理解できない者は、幸いなるかな──あなたはそこまで傷ついていないのだ。
 この愛に涙することの出来たものも、幸いなるかな──あなたと苦しみを分かち合う「戦友」がそこにいる。あなたは決してひとりではないのだ。
 
 物語のラスト、「生きている」というただ純粋にそれだけの意味で最後まで生き延びたラウは、ある仕草を示す。この物語を『I』から観続けている観客は、当然、それがある人物の仕草と同じものだということに容易に気付く。あぁ、彼はここで初めてその望みを叶えることができたのだ。
 そして再び2002年、『I』の冒頭のシーンが繰り返され、「被遺忘的時光」の美しいメロディとともに男達の物語はその円環を閉じる。
 戦慄すべき美しさである。
 無論、瑕疵はある。ラウが「善人になりたい」と願った本当の理由は、遂に明らかにされなかった。催眠療法を掛けられたラウが、(サムの妻の)マリーとの出逢いでその想いを枉(ま)げたことを呟くが、それより過去の出来事には触れられていない。そこがワンカットでもあれば、より感動が深まったろう。
 しかし返還後、多くの人材を流出させ、韓国の追い上げを喰らい、一度はどん底までに追い込まれた香港映画界が、遂にこの美しさまで辿り着いたかと思えば、惜しみない賞賛を禁じえない。
 素晴らしい映画だった。ありがとう。

*1:後に出た『銀の海 金の大地―古代転生ファンタジー (コバルト文庫)』では、古代日本を舞台としたファンタジーでありながら、巻を追うごとに政治的抗争や冷徹な暴力の論理が背景として前面に押し出され、ハードボイルド性が高まっていった。更に既刊最終巻に収録された短編では、現代風に言えば破壊工作員の宿命と悲劇ともいうべきエピソードが語られ、コバルトのレーベルに留まらない完成度の高い冒険小説となっている。