積読日記

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『Fate/Zero Vol,4 -煉獄の炎-』

Fate/Zero Vol.4 -煉獄の炎- (書籍)

Fate/Zero Vol.4 -煉獄の炎- (書籍)

Fate/Zero Vol.1 -第四次聖杯戦争秘話- (書籍) Fate/Zero Vol.2 -王たちの狂宴- (書籍) Fate/Zero Vol.3 -散りゆく者たち- (書籍)
Fate/Stay night DVD版

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Fate/hollow ataraxia 通常版(DVD-ROM)

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 ※上記、Win版ゲーム2作品は18禁なので購入時は要注意。
フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] (通常版)

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] (通常版)

 終局の巻、そして始まりの巻。
 血風が舞い上がり、玄(くろ)き焔(ほのお)の煉獄が天より降り注ぐ。
 人間たちが、英雄たちが、皆々、自らの誇りと尊厳を賭けて激突する。
 砕け散る魂の閃きの果てに、やがて待つ約束された悲劇の瞬間へ向けて、物語は最後の疾走を開始する――
 
「小説」なんてものは半分は読者のものなのだから、どう読んでもいいのだけど、自分が読了してまず感じたのが、これは「大人」の物語なのだな、というものだった。
 いや、別に本編である『フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] (通常版)』と比べて登場人物たちの平均年齢が高いというだけではない。それなりの人生経験を経て、社会的なポジションも私的な精神性のポジションもほぼ固まってきて、その積み上げきたものすべてを賭けて(あるいは投げ打って)闘うこととなった者たちの物語という意味である。
 その意味で言うと本編は「闘争を通した自己形成」という側面が強く、あえて言うなら「少年」もしくは「青年」の物語と評することができる。
 本編についての話はここでは措くとして、この物語では自分探しだの自己形成だのはひととおり終っていて、それなりに信念を持って闘争の場にその身を投じている者たちがほとんどなのだ──見かけ上は。
 
 この物語が優れて現代の「大人」の物語であるのは、そうした「完成された自我」のつもりで参戦した者たちがことごとく状況に裏切られ、信念をへし折られて次々に斃れ、あるいは変質してゆく物語だからだ。今更、自分探しなどするつもりもないのに、無理やり「お前の正体はこれだ」と突きつけられ、積み上げてきたものは奪われてゆく。掲げた理想は血と泥にまみれ、求めた「約束の地(アヴァロン)」は荒涼たる原野でしかないことを思い知らされる。
 結果、この物語を終えて生き残った者たちは、皆、そうした変質を受け入れた者たちだった──望むと望まざるとに関わらず。
 これは現代の「大人」が直面する「日常の風景」そのままだ。
 
 以前、『文化系トークラジオLife』「大人になるということ」の回だったかで、サブパーソナリティの誰かが口にした言葉に「昔の大人は変わる必要がなかったけど、今の大人は変わり続けることを求められている」というものがあった。これは要するに、昔は「大人」というと、「頑固親父」の言葉に象徴されるように、たとえいびつであろうと完成された人格の持ち主であるとされていたが、今はなべて過剰流動性の世の中であり、「大人」であればあるほど、常に変わり続けて新しい状況に適応し続けることが要求されている、ということだ。さもなければ、現在の社会的ポジションを維持できない。
 そもそも、今の仕事を「一生の仕事」だと胸を張ることのできる「大人」がどれほどいるというのか。職場が変われば新しい技術を身に付けなければならず、新しい人間関係に適応するコミュニケーション・スキルを身に付けなければならない。昨日と同じ「私」ではいられない。変わらねばならない。変わらねばならない──そう、生き残りたければ。
 その意味で、現代の「大人」は、本人の意志と覚悟の有無を問わず「闘争を通した自己形成」を死ぬまで続けなければならないのだ。
 まぁ、あくまでイメージとしての「大人」像の話なので、昔の「大人」の実像がどうであったかとは別の話である。特にこの国で終身雇用制が維持できていたのは、大正年間からバブル終焉までの歴史的に見てごく短い期間でしかなかったのだから、もともと世の中なんてのはこんなものだと言えなくもないのだが、いずれにせよ、私たちは青年期同様の激動の日々を死ぬまで覚悟しなければならない立場にある。
 闘争の日々は、どこまでも続くのだ。男も女も。老人も若者も。
 
 しかしながら、この物語の肝は、そうした闘争の日々と積み上げられた犠牲の彼方に、希望の灯火(ともしび)が存在することを告げていることだ。
 それはそれほど大げさな話ではない。
 私たちが闘ったこと、闘ってまで護ろうとしたもの、手に入れようとしたものがあること、その想いを誰かが受け継いでくれるなら、たとえ志半ばに斃れたとしても、私たちはそこに救いを見出すだろう。
 この物語の成立過程の構造上、それが「約束された救済」でしかなかったとしても、しかしそこに至る道筋をしっかりと語ってのける著者の力強い語り口があればこそ、私たちは感動にその身を委ねることができる。
 私たちは、この残酷で非情で不条理窮まりない物語を通じて、私たち自身の闘いにも「希望」が存在しうることを知り、そこに清々しい涙を流すことができるのだ。
「大人」であればこそ、その奇跡の価値が判るはずだ。
 正直、『白貌の伝道師』『鬼哭街 紫電掌 (角川スニーカー文庫)』を読む限り、優れた「暗黒小説(ノワール)」作家であっても、これほど豊かに世界を肯定できる資質を持った作家だとは見抜けなかった。明らかに本作の執筆を通して、虚淵玄は大きく成長したと認めなくてはならない。
 さぁ、涙を拭い、物語からもらった勇気を胸に、私たちも私たち自身の物語へと戻ろう。
 私たちの戦場へ、私たちの「約束の地(アヴァロン)」へ。