積読日記

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佐藤優『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)』

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

 読む前のファストインプレッションについてはこっちでやってるのでそれを参照していただくとして、全編通して読んでみて、やはり最後まで印象に残ったのは、冷静を通り越して透徹の域にまで達した筆致だ。
 長年にわたって積み重ねてきた外交官生命の破滅という事態に接しながら、「歴史」という視座(パースペクティブ)の中で事件を捉え、この国がどこへ行こうとしているのかというベクトルを浮かび上がらせるくだりは、ある意味、本書の最大のクライマックスと言っていい。
 以下、長くなるのでたたみます。
 
 本書を通じて著者である佐藤優が喝破しているのは、グローバリゼーションという全世界規模の変動を背景に、本事件を通じて国内政治の潮流がドラスティックに転換されたという点だ。
 本書上での表現に沿うなら「ヘーゲル型有機体モデル」から「ハイエク新自由主義モデル」への転換である。
 このふたつの用語が著者の造語なのか社会学的に専門用語として確立しているものかどうか、勉強不足なので何とも言えない。
 だがここでは、「ヘーゲル型有機体モデル」は国家・民族・地域共同体を個人が有機的に結合した主体と捉え、これらのコミュニティーの生存と安定を重視する考え方。一方、「ハイエク新自由主義モデル」は独立した個人がその持てる能力の許す限り自由に活動できる環境を理想と捉える考え方である。
ハイエク新自由主義モデル」では、能力さえあれば血筋的、文化的に日本人である必要さえ問われない。能力のある者や企業に資金や人材等の社会リソースが傾斜的に集中するように、社会は設計され、運用される。逆に言えば、能力のない、あるいは能力を発揮する環境にない個人には、徹底的に生き辛い社会となる。端的に言ってしまえば、今の日本社会そのものだ。この社会では、富や幸福は自ら獲得するもので、能力差を補うような形での再配分機能は、むしろ富める者からの収奪として罪悪視される傾向にある。
 一方、「ヘーゲル型有機体モデル」はコミュニティの安定を重要視するので、コミュニティ内部での過度の資産格差は安定を妨げるものとして嫌われる。弱者や貧者でも社会の構成員としてそれなりに認められ、生活を営むことができるが、一方、能力のある個人にとって生き辛い社会かもしれない。高度成長期時代の日本、とりわけ田中角栄の列島改造の基本思想となった考え方と捉えると理解しやすいだろう。
 
 それとは別に、もうひとつ外交方針として「国際協調的愛国主義」から「排外主義的ナショナリズム」へと転換が行われている。これは総理の靖国神社への参拝が象徴的で、自国のアイデンティティを強調するためなら周辺国への配慮などを過度に軽視するようになった*1
 何でこんなことが起きたかといえば、グローバリゼーションの深化に伴う自然発生的な反発というだけでなく、小泉内閣が意図的に引き起こした側面もある。知っての通り、党内基盤の脆弱な小泉内閣は「改革」実現のために世論の支持を絶対的に必要としていた。そのために片っ端から「抵抗勢力」のレッテルを貼ってパブリックエネミーに仕立て上げ、その排撃を名目に自らが目標とする政策を実現していった。それを外交においても適用したのだ。
 
 失脚前、鈴木宗男代議士は国内政治家としては公共事業による地方振興を重視する「ヘーゲル型有機体モデル」の政治家であり、外交的にはロシア、中央アジアイスラエル方面に強い「国際協調的愛国主義」の政治家だった。小泉首相が鈴木代議士個人に何か含むところがあったとは思わない。だが、鈴木代議士に代表されるロールモデルをこの国の政治システムから排除しようとしたとき、「国策捜査」として鈴木代議士を失脚させるのが、国家の明確な意志を国民各層に見せつけるもっとも効果的な「政策」だったのだ。
 
 ただし、本書上でも指摘されているように、小泉内閣が選択した「ハイエク新自由主義モデル」で「排外主義的ナショナリズム」という組み合わせは、厳密には矛盾しておりいずれ破綻する。先に述べたように、「ハイエク新自由主義モデル」は能力と資本さえあれば誰でもよく、格差の増大を是認どころか積極的に肯定するので、必然的にコミュニティは分裂してゆく。しかし、「排外主義的ナショナリズム」は、「仮想敵国」を設けて国民の国家幻想を強化しようとする試みだ。
 考えても見よ。その「仮想敵国」の人間や企業が、能力と資本を携えて国内市場に乗り込んできたら、どう対処すればいいのか。歓迎すべきなのか。排撃すべきなのか。
 ただ、こうした現象は別に今始めて発生したわけではなく、明治維新など「尊皇攘夷」で幕府を倒したら、その舌の根も乾かぬ間に維新政権は「文明開化」にあっさり政策転換してのけている。旧体制(アンシャン・レジーム)を打倒するために、革命勢力が「ツール」としてナショナリズムを利用するのは珍しくないのだ。こうした都合の良いナショナリズムの利用は、しくじると国中を焼け野原にしかねないのだが、革命勢力側にしてみれば「いっそ何もかも焼き払っちまえ」という立ち位置なので遠慮する必要はない。
 
 しかし、当然のことながら、こんな無茶をすれば揺り戻しがくる。
 明治維新の時は士族の反乱を招き、大久保利通を初めとした多くの政府要人が凶刃に斃れた。
 今のところ、今回はそこまで至っていないものの、内政外政の矛盾は安部政権下において党内統制の破綻と参議院選挙の自民敗退という形で噴出し、安部総理のあの無様な辞職の顛末につながり、福田内閣にあっても政界再編をにらみながらの与野党の攻防という余震が続いている。
 
 本書はひとりの外務官僚の失脚を巡る物語というだけではない。
 その時代の社会構造を垣間見ることのできる歴史の特異点での出来事を語り、これからのこの国の未来を見通すための貴重な視座(パースペクティブ)を与えてくれる優れた論考の書でもある。
 著者や鈴木宗男代議士が本当に犯罪者であるのかどうか、ここで自分の見解を披露する気はないが、本書の価値については胸を張ってお勧めするものである。

*1:なお、靖国参拝の正統性云々についてはここでは関係ない。周辺国が嫌な顔をすると判りきっている行為をわざわざやってのける所に、「排外主義的ナショナリズム」の性格が帯びてしまうことが重要。