積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

■Twitter               ■Twilog

■小説を読もう!           ■BOOTH:物語工房
 
各種印刷・製本・CDプレス POPLS

心と世界と

 依然として例のリストア企画の検討を進めているところ。
 世界設定の構築のためにあれこれ資料を読み漁っています。
 
 が、これだけでは「小説」にはなりません。
 何故なら、「小説」とは「心(感情)」を描くものだから。
「小説」とは、泣いたり、笑ったり、怒ったりといった感情を読者の心に沸き立たせることを目的としたメディアです。だから当然、書き手にも、物語の登場人物にも「心」がなければならない。それが火傷しそうなほどに熱い熱量を帯びたものなのか、触れねば気付かぬほどの仄かなぬくもりなのか、清らかなのか、どす黒く煤けているのかも問いません。
 どう在るにせよ、まずはそこに「心」が在ることから始まるのが「小説」の「小説」たる所以なのだと、思うのです。
 
 今回の場合、何せ「リストア企画」ですので、10年前にやりかけのまま残してきた「心(感情)」が始めから在りますから、それを核にすればいい。
 ですが、前回失敗した反省として、その「心(感情)」の部分だけで突っ走っちゃったという反省があるんですよね。
 どういう事かというと、例えば主人公の目の前に越えがたい壁がある。「この壁が越えられない」と作中で主人公が悲憤慷慨したとして、しかし読者から見て「すぐそばにドアがついてるじゃん。何言ってんの、このバカ」と突っ込みを入れられるようなずさんな舞台設計では、作者が伝えたいメッセージは違ってきてしまいます。悲劇が喜劇になったり、同じ悲劇でも別なメッセージになってしまう。
 それもまた良し、とするのもひとつのスタイル。
 または、「都合の悪そうな設計ミスは読者の方で勝手に見ないで済ましてくれるだろう」とたかを括るのも、またひとつのスタイルです。
 だから、それ自体に良いも悪いもないのだけど、今回のお話では自分はそうしたくないと考えている、ということです。
 ……まぁ、「作者」として、というより「一読者」として、そうしたお話が読みたい、というだけの話なんですが。
 
 そんなわけで、今は貪るように「世界」を知るための情報を頭に詰め込みつつ、登場人物たちの「心(感情)」のことを悶々と考えています。
「世界」の構造がひとりひとりの登場人物たちの「心(感情)」にぎしぎしと音を立てて喰い込み、その「心(感情)」が放つ激情と咆哮が「世界」を震わせるほどの力で「物語」を駆動させる──その姿が具体的にイメージできて、「物語」が自ら走り出す、その時まで。
 
 あとちょっとのところまで来てるんだよなぁ。
 一応、事件の戦略的な背景事情、黒幕の個人的な動機までは見えてきて、後は今回の狂言廻しとなる新主人公の動機や行動原理さえ見えてくれば……むむぅ。