積読日記

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義忠『彼女の戰い』第14回

Scene 14

 NERV本部医局施設の白く長い廊下を、アタシは走っていた。
 医師や看護婦達の咎めるような視線を無視し、まっすぐにシンジの病室を目指す。
 それはアタシに、遠く忌まわしい記憶を呼び起こさせる世界だった。
 EVAのパイロットに選ばれた幼いあの日、アタシはこうやって実母(はは)の入院する病院の廊下を息を切らせながら駆け、そしてその果てに――
 何を、バカな……!
 声に出さずに呻く。首を振って、滲みだす冥(くら)い予感を振り払う。
 やがて、受付けで訊いたシンジの病室にたどり着いた。
 ドアの脇のネームプレートに目をやる。「碇シンジ」の名前と患者の在室を示す赤いプラスティックのチップ。それを確認し、ドアのタッチパネルに手を伸ばす。
 一瞬の躊躇(ためら)い――ドアの向こうに待ち受ける恐怖を想い、心と躯(からだ)がすくむ。
 大丈夫。あんなことはもうない。シンジはちゃんと還ってきてるんだって、ミサトだってそう言ってたもの。ママのようなことは、絶対に、ない――
 そう自分に言い聞かせると、アタシは深呼吸して何の根拠もない冥(くら)いイメージを頭の隅から追い払う。
 そして、改めてタッチパネルに手を触れた。
 圧搾空気の洩れる音とともにドアが開く。窓から差し込む夕陽の所為か、そこはやわらかな茜色の光に包まれた世界だった。たったひとりの患者にあてがわれた部屋にしてはやけに広いその病室には、飾られた花もなく、ベッドがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
 そこに横たわる黒髪の少年の横顔に、不思議なほど深い安堵感を覚えている自分に気づき、ちょっとだけ動揺しかけた。
 と、その向こう――ベッドのそばの枕元で、制服姿の青い髪の少女がシンジの寝顔を覗き込んでいた。
 優等生……?
 だがそれは、アタシの知っている人形のような少女ではなかった。
 シンジの手を胸元で大切そうに握り、穏やかで、慈しみに満ちた表情をシンジに向けている――そんなファーストの姿を前に、アタシは言い知れぬ既視感(デジャヴュ)の荒波に放り込まれていた。
 出逢っていた。
 遠い、遠い昔、どこかでアタシは「彼女」と出逢っていた。
 それは、どこで?
 あぁ、そうだ。
 あの日、あの場所で、アタシは「彼女」と――
 
 鎮魂の鐘。棺にかかる土の音。低くたれ込めた鉛色の雲。雪が降り出す前の、湿り気を含んだ冷たい空気。……。
「仮定が現実のものとなった――因果なものだな。提唱した本人が実験台とは」
「では、あの接触試験が直接の原因、というわけか」
「精神崩壊――それが接触の結果か」
「しかし残酷なものさ。あんな小さな娘を残して自殺とは」
「いや。案外、それだけが原因でもないかもしれんな」
「例の旦那と彼女の主治医の噂か?」
「無理もない。彼女のあの性格だ。男なら誰だって息が詰まる」
「だがあの彼女に、今さら旦那の浮気を気に病むような繊細な一面があったとは」
「さぁ、どうかな。仕事も家庭も完璧でないと、プライドが保てなかったってだけじゃないのか」
「ありうるな。しかし、それじゃ家庭でもあの調子だったってことか」
「そりゃ旦那にしたらたまらないだろう」
「違いない」
 失笑を噛み殺すかのような含み笑い。
 実母(はは)の葬儀――参列者の誰一人として、彼女の死を悼んでなんかいない。
 アタシと手を繋ぎ、土に覆われてゆく棺を無言で見つめているあの男の表情からも、何の感情もうかがえない。
 いや。ひとりだけいた。
「偉いのね、アスカちゃん」祖母はハンカチで顔を覆いながら言った。
「いいのよ。我慢しなくても」
 何を言っているのだろう。
 アタシにとって、実母はとっくの昔に死んでいた。心の中で彼女の棺には土をかけてあった。
 実母が人形を自分の娘にしたときに。
 一緒に死んでちょうだい、とアタシの名を囁きながらその人形の首を絞めたときに。
「いいの。アタシは泣かない。アタシは自分で考えるの」
 その言葉に感極まったかのように、祖母が声を上げて泣き出す。
 その姿を冷ややかに眺めながら、アタシは胸で呟いた。
 そうだ。アタシは実母の人形じゃない。一緒になんか、死んでやるものか。
 実母の愛した人形のアスカは、棺の中だ。
 パパもママもいらない。アタシはひとりで生きるの。
 実母の葬儀の後、アタシは隙を見て大人達の間から抜け出した。上っ面だけの同情を示すだけ大人達にはうんざりだった。アタシの決意を理解してくれる大人なんて、そこにはひとりもいなかった――少なくとも、アタシにはそう思えた。
 どこへともなく歩く内に、気がつくと教会の礼拝堂の中に迷い込んでいた。
 そこでアタシは「彼女」に逢ったのだ。
 祭壇の上のステンドグラス――幼子イエスを抱いた聖母マリア
 ぼんやりと見上げていると、ステンドグラスがゆっくりと輝き始めた。
雲に切れ間ができて、陽射しが差し込み始めたのだろうか。
 くすんだ色のステンドグラスが光に包まれてゆく。
 そのあたたかくて、優し気な輝きを帯びたマリア像を見ていると、もう二度と「彼女」の腕に抱かれることはないのだという事実がひしと胸に迫ってきた。
 そのとき、アタシは涙が頬を伝ってゆくのを感じた。
 泣いてる?
 アタシ、泣いてるの?
 葬儀の場でも、泣かなかったのに。
 これからも決して泣くまいと、誓っていたのに。
 けれどそのときアタシは、間違いなく泣いている自分に気づいていた。
 その事実を、その感情を、アタシはずっと忘れていた。 
 そうか――そうなのか。
 アナタのことを世界中の誰がどう言おうと構わない。
 アナタを喪(うしな)ったことで、アタシはこんなにも悲しかったのだ。
 アタシは我知らず「彼女」の名を呟いていた。
「……ママ……」
 
 そのとき、ファーストが急に顔をあげた。まるで機械のような挙動。さっきまでとはうって変わった、無表情な貌(かお)がアタシを見ている。
 その変化になぜか微かな痛みを覚えかけ、次の瞬間、アタシもまた我に還った。頬が涙で濡れていることに気づき、慌てて手で拭う。
 ファーストが椅子から立ち上がった。ちょっとだけシンジの方へ目をやる。が、何かを断ち切るかのようにそこから視線を逸らすと、アタシの前までやってきて短く告げた。
「どいて」
「な、アンタ――」
 アタシを無視し、ファーストは強引に病室から出てゆこうとした。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、アンタ――!」
 アタシはとっさにファーストの腕を掴んだ――だが、呼び留めてどうする? 何を話す? 何を訊くつもりなの、この女に?
 自分のとった行動に誰よりも戸惑っているアタシを、ファーストがじっと見つめていた。
「アンタ――」赤い瞳の視線に曝される内に、自分でも思いも寄らなかった問いを口にしていた。
「シンジの何なの?」
 不意にファーストの貌(かお)が激しく歪む。
 それはまるで、魂を引き裂かれんとするかのような、そんな苦痛に必死で堪える「人間」の貌――
 その突然の変貌を前に驚愕で声も出せないアタシを睨み、ファーストは何かを叫ぼうとした。 
「アナタに――っ!」
 しかし、ファーストの叫びはそこで途切れた。まるで感情を顕(あら)わにしてしまったことを恥じるように、急に口をつぐみ、俯(うつむ)く。
 やがて、消え入りそうな声で言った。
「おねがい……はなして」
「…………」
 アタシは言われるままに手を離した。
 ファーストは何も言わず、背を向ける。
 白く長い廊下を去ってゆくその背中を、アタシは黙って見つめ続けた。
 それはひどく小さく、悲しそうに見えた。
 
 再び我に還ったのは、ファーストの背中を見えなくなるまで見送ってからだった。
「シンジ……?」
 枕元に近づいたアタシは、シンジの穏やかな寝顔を見下ろした。
 ほぼひと月振りに目にする少年の貌は、以前と何も変わっていないように見えた。ずっとEVAの中に取り込まれて実体を喪(うしな)っていた割に、特にやつれた様子もない。思わず、アタシが初号機の格納庫(ケイジ)で目にしたあの映像は幻だったのではないかと疑いたくなった。
 つと目をやると、布団の脇から細い腕が顔を出していた。さっきまでファーストが握っていた掌(て)。……。
 ベッド脇の椅子に腰を下ろしたアタシは、何とはなしにその掌を手に取った。
 あたたかい……。
 確かなぬくもりと感触。とてもついさっきまで液体と化していた人間のものとは思えない。もしかすると、あのときアタシが見たのは本当に――
 不意に、その掌が逆に強く握り返された。
「!?」
「……綾波……?」
「あ……っ、え……っ!?」
 とっさに気が動転して、酸欠のコイのように口をぱくぱくさせているアタシに、シンジが薄目を開けてそっけなく告げた。
「なんだ――アスカか」
「な……っ!」思わずかっとなって怒鳴っていた。
「なんだとは何よ、なんだとは!? 人がせっかく――っ!」
「うぅっ……そんなに耳元で怒鳴るなよ」
 シンジが眉をしかめる。
「すぐそこに綾波がいたような気がしたんだ。それで――」
「いたわよ、さっきまで」アタシはそっけなく応えた。
「アタシの顔を見るなり、帰っちゃったけどね」
「……そう……」
 シンジはアタシの顔から目を逸らし、天井を見た。
 何だろう?
 その横顔を見ている内に、自分でもよく判らない焦りのようなものを感じ、アタシはシンジに話しかけようとした。
「ねぇ――」
「……夢……」
 アタシの言葉を遮るように、不意にシンジが呟いた。
「え?」
「夢をさ、見てたんだ……ずっと」
「夢……?」
「うん……綾波ミサトさんや、アスカ達が出てきて……」
「なによ、女ばっかじゃない」
「そうだね……でも――」
「でも?」
 その問いにシンジは何も答えず、静かに瞼を閉じる。
 ややあって、アタシはもう一度、さっき口にしかけた話を切りだそうとした。
「ねぇ、シンジ。アナタがいない間にね――」
 って、聞いてない。
 シンジは既にすやすやと寝息を立てていた。
「……コイツ……」
 叩き起こしてやろうか――と考えたものの、そのあまりにも無警戒な寝顔を見ている内にバカバカしくなって、やめた。
 まぁ、とりあえずこうして五体満足で還ってきたことは確認したんだから、引き上げるか――
 椅子から腰を浮かせかけ、シンジに掌を握られたままなのに気づいた。
 振り払おうかとも思ったが、意外に力がこもっている。よもや寝た振りしてんじゃないでしょうね――と、睨みつけてみたが、太平楽な寝顔を見る限りその様子はなさそうだった。
「……ま、いっか」
 何となく無理して起こしてしまうのも気が引け、結局、もう一度腰を下ろした。
 と言って、ここにいても別にやることもない。
 アタシは見るとはなしにシンジの寝顔を眺めた。
「ったく、寝てるときまで惚け惚けっとした顔しちゃって……」
 寝てるんだから普段より惚けた顔してんのは当たり前っちゃ、当たり前なのだが。
「しっかし、こうして改めて間近で眺めるとつくづく女顔してるわよねぇ」
 眉も細いし、顎のラインの細さなんか下手な女より女らしい。なんか釈然としない。世の中ってやっぱ理不尽よね。いっそスカートでも履かせて化粧でもしてやったら、相田や鈴原あたりなんか簡単に引っかけられんじゃないかしら――
 などとたわいもない考えを頭に浮かべてる内に、ふとシンジの寝顔が誰かに似ていることに気づいた。
 誰だ……?
 芸能人とか、有名人とか、そんなんじゃないのは確かだ。もっと身近な人間。そーいや、コイツの父親はあのヒゲの司令だっけ――でも、この親子って、言われなきゃ判んないくらい似てないもんねぇ。
 けど、じゃぁ誰だ?
 イメージがうまくまとまらない。
 そこに答を探すように、アタシはシンジの顔をじっと見つめた。さっきアタシは、シンジのこの顔のどこに引っかかったのだろう。
 目、鼻、口……眉、顎のライン――まるで女みたいな顔。
「!?」
 アタシはとっさに顔を上げ、病室のドアを見た。次いで再びシンジの寝顔に視線を落とす。
 まさか……まさか、そんな……!?
「優等生――そうなの?」
 シンジと初号機が使徒の位相空間に呑み込まれたとき、ミサトの撤退命令にあらがったファーストの顔。シンジの愚かさを嗤ったアタシにひたむきな瞳で向かってきたときのファーストの顔。シンジの掌を握って微笑んでいるファーストの顔。泣き出しそうな表情でアタシを睨むファーストの顔。……。
 そして、静かに眠るシンジの寝顔。
 それらすべてが指し示すひとつの答に、アタシは言葉を失った。
 そうか。そうなのか。
 具体的にそれがどんなものなのかまでは判らない。だが、あの赤い瞳の少女とこの少年との間には、何らかの形で血の繋がりが存在するのだ!
 シンジとファーストの間に存在する不思議な距離感。友情というには深く、恋と呼ぶには淡いその距離。
 それも遺伝子の結びつきに基づくものだったとすれば、すべて納得がゆく。
 しかし、そんなことは誰も教えてはくれなかった――あるいは語ることすらタブーなのか。
 シンジの父親がNERVの司令長官であることは誰でも知っている。そのシンジと血縁関係であるということは、当然、司令とも繋がりがあるということだ。彼女の司令に対する異様なまでの従順さの原因もそこにあったのだろうか。
 加えてその特異な容姿――水色の髪。赤い瞳。色素の存在を微塵にも感じさせない白すぎる肌。
 すべての「点」を繋ぐ「物語」。繋がるはずのない「点」を繋ぐ「物語」――誰も語らない、語ろうとしない「物語」がそこに在るということなのか。
 ファーストが口にしかけた言葉。
「アナタに――っ!」
 アタシに?
 ファーストはアタシに何を告げようとしていたのだろう。
 怒り? 悲しみ? それとも、苦しみ?
 いつもは人形のように無表情な少女の貌を歪ませるほどの烈しい感情。
 感情――心に宿るもの。
 心――人形には不要なもの。
 実母の手に握られていた人形――アタシの代わりに首を絞められた人形。
 あの人形が心を持ったら――いや。持ってしまったなら。
 そう。
 それはあのときのファーストのような、苦しみに満ちた表情であったろう……。
 アタシは小さく吐息をついた。
 シンジは知っているのだろうか?
 アタシはその考えをすぐに否定した。知っているとは思えない――知っててあの淡い距離感を維持できるような、器用な少年ではない。ファーストにもそれは判っているはずだ。ただでさえ無口なあの少女が、あえて自分から口にするわけがない。
 じゃぁ……。
 アタシはファーストのあの小さな背中を想った。
 あれは独りで戰っている者の背中だ――出口のない冥(くら)い森の中を、たった独りで歩む者の背中だった。
 いや。ファーストだけじゃない。この世界に生きる誰もが、迷い込んでしまったそれぞれの森の中から抜けだそうと必死にもがいている。
「…………」
 アタシは手元のシンジの掌を見た。ファーストはどんな想いでこの掌を握っていたのだろう。
 そんなことを考えながら、シンジの掌をほんの少しだけ握り返してみる。
 すると、それに応えるように、シンジもまた握り返してきた。
 びっくりしてシンジの顔を見る。相も変わらぬ平和そうな寝顔。起きてる様子はない。
 だけど、その寝顔を眺めている内に、なんだか不思議な可笑しさがこみあげてきた。
 きっとファーストもこんな気持ちで微笑んでいたんだろうなと思った。もしかすると、このぬくもりこそが彼女の歩む暗闇の中へただひとつ差し込んだ光であったのかもしれない。
 それを想ったとき、不意にアタシは気づいた。
 あぁ、そうか。そうなんだ。
 たぶん本当は、アタシが思ってたよりずっと単純で簡単なことだったんだ。
 その瞬間、目の前を覆っていた深い霧が一気に晴れてゆくような気がした。冥(くら)い木立を抜け、あたたかな陽射しにあふれ、涼やかな風のそよぐ草原がどこまでも遥かに広がっているような、そんな晴れやかな気分だった。
 アタシは声に出さずに語りかけた。
 ねぇ、シンジ。
 アンタが起きたら話さなきゃいけないことがいっぱいあるわ。
 EVAのこと、NERVのこと、ミサトのこと、加持サンのこと、相田のこと、鈴原とヒカリのこと、ファーストのこと――そして、アタシ自身のこと。
 それはどれも、話したからってすぐにどうなるって問題じゃない。それにひとつの森から抜け出すことができても、それは得てして新しい森の入口でしかない。森はどこまでも続く。きっと生ある限り、ヒトは歩み続け、戰い続けなくてはならないのだろう。あるいは、それこそが「生きる」ということなのかもしれない。
 それでも――それでもね、シンジ。
 アタシは、いいえ、アタシ達はひとりじゃない。
 周囲を包む闇がどれほど深く凍てついていたとしても、こうやって手を伸ばせば届く距離に、必ず同じように戰っている誰かがいる。
 勿論、手を差し伸べたからって、いつもこんな風に握り返してくれるとは限らない。手荒く拒絶されることだってある。裏切られることだってある。むしろ、そっちの方が多いくらいかもしれない。
 それでもそこにこのぬくもりがあるのなら、諦めちゃいけないんだって、そう思うの。
 このぬくもりを信じることができるなら、怯れることは何もないんだって。
 そのことを、すぐにでもシンジに話したかった。
 アタシはシンジの掌を握ったまま、少年の瞼(まぶた)が開かれるそのときを待ち続けた。
 いつまでも。
 いつまでも、ずっとそのときを――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 そしてアタシは、今日もこの街で戰い続けている。
 
  
 
 
 
 
 
 
                                    >>>>to be Continued ORIGINAL EPISODE:21.