『アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)』
- 作者: 洋泉社ムック編集部
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2008/07/29
- メディア: ムック
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自分も秋葉原を訪れた際に、友人たちと一緒に献花してきたし、事件そのものは憎むべき犯罪でしかない。何度も繰り返すが、犯人に対するいっさいの同情もない。
なのだけど、この事件について語る際に僕らはどうにも困惑し、語る言葉も歯切れが悪くなる。う〜ん。
犯人が犯行直前までに残した膨大なダイアログや、マスコミが探り当てたり親族が証言する犯人のバイオグラフィを見る限り、彼より悲惨な境遇の人はごまんといるし、物騒なことを日常的に「考える」人だって珍しくないと思われる。なのに、彼が「一線」を越えてしまったのは、一重に自家中毒的に脳内でひたすら純化されてゆく破壊衝動に誰もブレーキを掛けられなかったからだ。
「誰も」と今ここで書いたが、職場でも趣味的な空間でもそれなりに話し友達くらいはいたようなのだが、後になって振り返れば、孤独に歪んでゆく彼の精神の奥底に誰もリーチできていない。掲示板等への書き込みを読めば、諭してくれる住人もいたのに、一切、聞く耳を持っていない。あげくにろくに住人も居ない携帯の掲示板に引き篭って独り言のような呟きを書き込みし続け、逮捕後に「誰かに止めて欲しかった」とこぼしたとなどと聞かされても理解に苦しむ。
結局、彼がその言葉に耳を傾けられるほど心を開き、信頼の置ける「友達」がいなかったのだろう。──どうも、彼の残した文章からすると、そうした役割も含めて「彼女」を切実に欲していたらしいのだが。
……まぁ、そうは言っても、あれだけ自分のネガティブな部分に執着されてる人間を素人がそう簡単に救えるか、というと、なぁ。その段階になって「友達」だの「彼女」だのができても、別な事件を招くだけのような気がするし。
どこで分岐間違ってしまったんだかなぁ。
その限りに措いて、普段から横のコミュニケーションが生じにくい派遣労働という職場環境の問題も問われるべきなのだろうが、そういうのはウザいから減らせというのが80年代から90年代を通じての若い労働者層の一貫した主張だったのも事実だ。呑みニケーションとか、職場の運動会とか、面倒くさくても、そういうので拾ってやらないといけない層というのもやはりあるのか。いや、それで犯人が救えたかどうかまで保証はできないのだが。
ただ、ひたすら歪んでゆく孤独な魂に扉を開き、別な視点からの風を吹き込んで靄を払うことは人間関係以外からもできたはずだ。この国の若者がこれだけ酷い扱いを受けながら、これまでテロや犯罪に走らず、暴動も起こさなかったというのは、まさしく趣都アキハバラに象徴されるこの国の膨大なコンテンツ群に慰撫されてきたからという要因は間違いなくあるだろう。
ところが、どうも犯人はこのアキバ系のノリにも乗り切れず、むしろ「乗り切れない自分」に疎外感を更に募らせていった感があるのだ。
先日、『電波男 (講談社文庫)』のレビューの際に、本田透的な「護身」思想を「緊急避難」の思想だと指摘したのだが、彼にとってそれは「避難地」とは成り得ず、それどころかむしろ憎悪の対象となってしまったらしい。
……つまり、この手のエキセントリックな人間に中途半端にコミットするとろくなことがない、というどうにも救いのない結論に達してしまい、暗澹たる気分に陥らざる得ない。
結局、日曜日の秋葉原を、あの歩行者天国の雑踏を愛するいちオタク消費者として、また同人作家の末席とはいえクリエイターじみた活動に手を染める者として、どうにも苦い敗北感を噛み絞めざる得ない事件となってしまった。
犯人を罵倒すれば良いというものではない。この無力感をどうしてくれる。
しかし、それでも作家は語ることやめてはいけないのだ。
今度は敗北だった。救いようのない、完璧な負け試合だ。
だが、次の作品では、何かが届くかもしれない。
閉ざされた暗闇の向こうに、ほのかな光を届けることができるかもしれない。
作家とはいつの時代、どこの世界にあっても、その希望を信じる者であるはずなのだから。