『ギリシャに消えた嘘』@ヒューマントラストシネマ有楽町(15/4/17(fri)鑑賞)
本日の映画『ギリシャに消えた嘘』@ヒューマントラストシネマ有楽町に劇場入りしました。『太陽がいっぱい』のパトリシア・ハイスミス原作のギリシャを舞台とするトラベル・ノワール、だそうです。 pic.twitter.com/DVYv0k6mYP
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』観終わりました。ギリシャで観光客相手のガイドをして暮らす米国人青年。死んだ父親に似た風貌の裕福な米国人男性とその妻のガイドを務めることになったが、男が自分を追ってきた探偵を誤って殺してしまったことから、青年は夫婦の逃避行に捲き込まれることになる…というお話。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:これは、どういうお話かというと、青年による「父親殺し」のお話です。映画の始めの方で、実家から届いた父親の葬儀に出なかったことを責める手紙を読んでいる場面があるのだけど、モラトリアムから抜け出せず、父親の死と向き合えない幼さが、そこで提示されています。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:その青年が、死んだ父親と向き合う代償として、旅の紳士に憧れ→協力→妻(母親)を奪い合い→侮蔑と対立から、その死を看取り、埋葬するまでと書けば、男の子の父親との関係性の始まりから最後までを、理想的になぞっていることが判ります。擬似的な「父との旅」なんだよね。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:ここで「侮蔑と対立」が入ってくるのは、父親を過大評価された幻想の存在ではなく、等身大の「ひとりの男」として受け留めるのに不可欠なプロセスだから。同時にそれは、男の子が長じて自身の弱さと向き合わねばならない時に、重要なロールモデルとして機能することになる。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:本作では「父親」たる紳士が、話が進むにつれ凄い勢いでろくでなしのど三品であることが露呈してく(^^;; まぁダメな大人ですよ。と同時に、そのダメさが、そっくり同じように青年の振る舞いにもあることが描かれ、ふたりが精神的な「親子」であることが強調される。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:考えて見れば、このご時世、父親の葬儀に出たり今際の際に立ち会うくらいまでならともかく、ダメなところも含めて父親の人生とがっつり向き合える男子はそう多くはない。一緒に暮らしてたわけでもなければ、なおのこと。自分も、親父の人生の何を知ってるかと言われても…。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:それはまぁ、人倫にもとるとか、親父さんがかわいそうとかいう以前に、「息子」にとっての魂の成熟をもたらす機会が奪われることなのではないか。この映画では、青年は、ちんけな詐欺師夫婦の逃避行に捲き込まれたこの事件を通して、代償的にその機会を得たのではないか。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:逆にこうして「親父」に近い年齢になった身で観ると、自分の人生をまるごと「看取って」くれる青年のような存在を欲する気持ちも、まぁ、判らんでもない。その辺の「需要と供給」というか、相互に代償関係として求めあった結果の物語というか、そういうお話でした。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日
『ギリシャに消えた嘘』:そういった神話的構造のお話を、60年代末の異国情緒たっぷりのギリシャからトルコを舞台に、往年の欧州映画の面持ちを持った上品さで描く映画で、これはこれで結構好きです。旅先の異国なればこそ、成り立つお話のような気もしまし。不肖の息子を自覚される方にこそ、是非。
— 義忠@冬コミ申込み中「物語工房」 (@yoshitada_n) 2015年4月17日