積読日記

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決断主義トークラジオAlive

S-Fマガジン 2008年 04月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2008年 04月号 [雑誌]

決断主義トークラジオAlive:決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー
http://talkradioalive.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/alive2_ed70.html

 老練な東浩紀の手練手管に翻弄される宇野タン萌え(ハート)。
 ……てなアホな与太はどうでもいいとして。
 どうもこのところの宇野常寛は、露出を重ねれば重ねるほど、底の浅さが露呈してヘタレ感が増してる感があるなぁ。
 あるいは簡単に消費尽くされつつあるというか。
 いっそ今は『ゼロ年代の想像力』の連載と単行本化に集中して、一年ぐらい東浩紀の下で書生として鍛えてもらった方がいいと思うのだが。
 この分だと、夏コミまでに賞味期限が切れちまうぞ。
 
 さて『ゼロ年代の想像力』を読むと、宇野常寛が「時代の潮目」を読むことに関しては恐るべき精度の感受性の持ち主であることが判る。
 が、同時に彼の最大の欠陥は、その「潮流」を二次元の平坦な模様としか認識できていない点にあるのだと思う。水面下にぎっちりと詰まった高密度の流体が渦巻いているという、流体力学的なモデリングができていないのだ。
 世界を巨大な「流体」として見れていれば、早い流れも、遅い流れも、逆流し、渦を巻き、上昇し、下降し、分断され、合流するそのすべての巨大なベクトルとパワーが統合し、海面上の「潮流」として形成されていることが理解できるはずなのだが。
 
 たとえば、彼の主張ではしばしば時代の潮流からずれたり、遅れている点をネガティブなものとして捉えたがる傾向があるが、これは二つの点で間違っている。
 ひとつはそんな視点で作品を読んでいる者は「評論家」だけであって、物語の「創作者」でも「消費者」でもない点だ。物語とは、その世界に没入して初めて機能する精妙な心理装置だ。メディアのパッケージの中に留まっている間はまだ物語は生まれてすらいない。消費者の心に届いた瞬間に物語は復号(デコード)され、展開し、感動が励起する。
 なればこそ作家たちは眩妙な技法を駆使し、時に自らもトランス状態に陥りながら物語を紡ぐのである。別に評論家どもの自説を補強してやるために作品を発表しているわけではない。従って、「時代の潮流」に沿っているかどうかなぞ、作品の優劣を語る上で徹頭徹尾関係ない。
 
 だが、それでも確かに「時代の潮流」はある。そう、あるのだ。
 しかしその「時代の潮流」の早さは、実は水面下に沈む膨大な「時代遅れの作品群」に支えられている、といえば驚かれるだろうか。
 つまり、こうだ。
 宇野常寛が指摘するように、時代の要求する物語のシーンは、セカイ系決断主義→ポスト決断主義(新・教養主義?)へと進化(深化)している。
 しかし、同時にもうひとつのサイクルとして、超越性←→日常性の両者の間を行ったり来たりするサイクルも存在する。
 これ以外にもさまざまな要因に基づくサイクルが相互に作用し、大きなトレンドのうねりを形成する。
 これは経済学における景気循環の考え方になぞらえると理解が早いかもしれない。発生から消滅まで最短40ヶ月で完結するチキンの波から、約50年で完結するコンドラチェフの長期波動まで、多様な景気サイクルの複合体が、私達が通常口にする「景気」の正体なのだ。
 同じように、時代の要請する物語のトレンドも循環しつつ波動を描いて変動しているのだが、しかしそれは過去にも同じような発生と消滅のプロセスを経た「先行モデル」が存在することをも意味している。
 勿論、そうした「先行モデル」は、あくまで過去のサイクル上の過去の文脈で語られた物語であり、そのままでは今の時代のトレンドには適さない。しかし、骨格(フレーム)としては活用することができる。
 実際に自ら創作活動を手掛けた者なら誰もが痛感することだろうが、骨格(フレーム)だけでもあるとないとでは、創作に必要な負荷は大違いなのだ。
 そしてその負荷の違いは、そのまま創作者のスピード感に直結する。
 従って、宇野常寛のような人物が第一義の評価点としている時代の最先端にアタッチする能力を創作者が備えるには、逆説的ではあるが膨大な「時代遅れの作品群」がいつでもアクセス可能な状態でデータベース化され、アーカイブされていなければならない。
 と同時に、「物語」が「生きた物語」としていつでも使用可能な状態であるには、一定の規模の市場が存在し、創作者が表現の技量を維持している必要がある。それには勿論、それを支持する消費者の存在が不可欠だ。
 そうした「時代遅れの作品群」をどれだけ抱えていられるかが、その文化の懐の深さでありパワーの根源なのだ。
 
 なので、いちいち「時代遅れ」だからって貶す必要はないと思うんだけどなぁ。
 いいんだよ、エロゲ好きな奴がそればっかやってたって。その内、そこで生き残った表現を使う時がくるかもしれないんだから。言ってみれば、伝統芸能の伝承者みたいなもので──いや、自分で書いてて、ちょっと無理があるかもとか思わんでもないけれども(汗)。
 少なくとも自分は80年代の末に76年に発表されたジャック・ヒギンズの『鷲は舞い降りた (ハヤカワ文庫NV)』を読んで感動して、以来、世間の流行と関係なくずっと国内外の冒険小説を読んできた。けど、それが決断主義を先取りしていたかというとそんなわけあるか、と(笑)。しかし、冒険小説やハードボイルドの世界で培われた表現技法を流用した作品群は、決断主義系統の作品に限らず、数多くあるのも事実。
 まぁ、意外と世界観の根幹にファンタジー的なアイデアを置きたがる決断主義系の作品と、より現実的(アクチュアル)であることに重きを置く、冒険小説やハードボイルドとは根本的なところで相容れないような気もするけど。
 それはともかく。
ゼロ年代の想像力』流に言うなら、そういう「想像力の遺伝子」は多様であるに越したことはないし、今の日本ならその多様性を支える経済力がある。
 それは言祝ぐべきことであっても、決して罵倒されねばならないことではないと思うのだけど。