積読日記

新旧東西マイナー/メジャーの区別のない映画レビューと同人小説のブログ

■Twitter               ■Twilog

■小説を読もう!           ■BOOTH:物語工房
 
各種印刷・製本・CDプレス POPLS

大内明日香&鈴木ドイツ『男1人に女100人のラノベは売れる!(上・下)』(出版評論社)


 今回のコミティアで買ってきた本、その1。
 ライターの大家明日香と作家の鈴木ドイツの対談集で、要するに「今のライトノベル業界で売れようと思ったら、ハーレムものを書くしかない」という内容の本。
 ……しかし、公式HPを見るとクレジット決済までやっていたり、どうも同人サークルと言うよりミニコミ系出版社と捉えた方がいいような。
 
 さて、「ライトノベル」が消費者の快楽原則への最適化を進めていった結果、「主人公からは何もしない」「でも出てくるヒロインはみんな主人公のことが好き」「苦しいこと(現実認知)は読者に嫌われるから書かない」というお話ばかりになっているという話で、まぁ、書店のライトノベルの棚を眺めていればその現状は簡単に把握できる。
 無論、このブームが瞬間風速的なものである可能性も指摘されているので、タイトルから来る印象ほどこの本自体は不誠実な本ではないのだが。
 しかし、こんな甘い菓子ばかり与えるようなラインナップで、青少年の情操教育という観点を出版社側がどう考えて……るわけないか。あんな焼畑農業みたいなやり方で作家を使い捨てにしている連中が。
 とは言え、そうした近頃のライトノベル読者の傾向について、ここでとやかく述べる気はない。あらゆる市場で発生しては、いずれ飽和状態に至って破綻し、別の角度から顧客ニーズが掘り起こされ、市場の再構築がはかられる──そのサイクルの一環でしかないからだ。
 そんなわけで、ここから先はこの本のレビューからまったく離れた自分の創作論の話になってゆくので、以下、よほどお暇な方のみお付き合いいただきたい。
 ……ま、それはそれで別な意味で不毛かも知らんけれども。
 
 この本で指摘される「プロの(ラノベ)作家を目指すなら、こうした市場動向を取り入れた柔軟な創作能力を身につけなければならない」という意見は至極もっともな話であると同時に、その資質が自分にまったく欠けていることをこの本を読んで改めて思い知らされた。
 というか、同人作家さんどうしでの呑み会などでの会話を通じて感じるのだが、割と作品を通じた自己承認欲求が強い方が世間には少なくないにも関わらず、自分はどうもその辺がちょっと希薄なようなのだ。
 無論、発表した作品を評価してもらえれば嬉しいし、ここでの小説連載にコメントがさっぱりつかないことにちょっぴり拗ねてたりもする。するのだが、「誰それが感想くれなかったから、自分のことをどうでもいいと思っているのだ」と絶望したり、それを大の社会人を毎週末に呼び出して徹夜で問い糾したい*1というほどの激しい情念はない。
 要するに作品の対外評価と自己承認欲求が、さほど直結していないのだ。
 これは、どういうことなのだろう。
 
 結論から言ってしまえば、自分の場合、執筆が済んだ時点でその目的はあらかた回収済みで、その後の読者からの反応は余録ぐらいにしか捉えていないためだ。
 このところ、小説の執筆を「旅」になぞらえた発言をすることがあるのだが、自分にとって作中のそれぞれのシーンへ心理的に没入し、自身の生身の体験に限りなく近いイメージとして「観る」ことが最大の目的なのだろう。「執筆」とはその手段に過ぎない。
 なぜそんな面倒くさいことをせねばならぬのかといえば、ここのブログを常々ご覧になっている常連読者であればご存じの通り、谷川史子のラブコメからネグリの帝国論まで、無節操に本を読んでいるものだから、放っておくと脳内の情報に整合性が失われ、自我の統合に齟齬をきたしかねないからだ。というか、谷川史子とネグリが統合された世界を自分が「観たい」のだが、誰も「観せ」てくれないので、しょうがないから自分で「観に」行くというだけの話に過ぎない。
 だから、著者である自分がそれを「観れ」ればそれで気が済んでしまっている、とも言える。
 できた原稿はその「旅」の過程でとった「記念写真」でしかなく、自分で読み返して「あれは我ながら良い旅であった」と悦に入るついでに、読者にもそれを見せて自慢している、と。で、所詮、「記念写真」に過ぎず、別にそれが目的で「旅」に出たわけでもないから、「写真の出来が悪い」と罵倒されても「はぁ、そうですか」という程度でリアクションも薄い、と。──いや、我ながらどうにも嫌になってきたな。
 結局、アレか。自分は自分以外の読者をさほど必要としていないのか。
 
 だが、ここで言う「旅」は「作品」と決してイコールではない。一人ひとりの読者を「旅」に連れてゆけない以上、読者にとって「作品」はやはり「記念写真」の方なのだ。
 しかし、旅人が目指しているのはあくまで「旅」の目的地への到達なので、失敗の見えた「旅」に拘泥はしない。どれほどその「作品」を恋焦がれる読者がいようと、断絶した「旅」の「記念写真」を捏造する必然性を旅人が感じるはずもなく、「作品」は断絶し、放棄される。
 ……真剣に最低だな、こいつ。
 
 だが、消費財としての「作品」を市場に供給することで糧を得る「プロの作家」に求められるのは、こんな求道者的な「旅人」ではなく、在り物の素材で番組を一本でっち上げる「旅番組のTVクルー」である。目的地まで辿り着けなければ辿り着けないで、そこに意味と価値と感動を見出し、きちんとお茶の間の視聴者の望みどおりのビデオを期日までに仕上げる、職人なのだ。それはそれで立派だと思う。充分に尊敬に値する。
 その点、自分はダメだなぁと思う。
「ハーレムもの」って、いや、まぁ、読む分には嫌いじゃないけど、自分で書きたいと思えるほど思い入れできないし、思い入れもないものをもっともらしく書けるような技量もないし。いや、何度かトライしてみてるんだけど、関心のないネタだとちっとも話が転がってくれないんだよね。
 つか、そもそも、そうまでして必死に社会的承認が欲しいというそっちの欲求が、さっぱり沸いてこないのが致命的なのだと思う。
 思うんだが……まぁ、いいか。<いや、だからその姿勢が問題なのだと。

*1:実話。深くは訊くな。